※このシリーズは、インスタで適当に書いたけど、ブログに残してもいいかなと思える文章を加工せずにそのまま転載するだけのシリーズです。1回目は12/27に書いた「スポンジの話」です。どうぞ。

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お気に入りの言葉があって
#pianopiano
ピアーノピアーノ

イタリア語で

ゆっくりやろうぜ

って意味です。

ざわざわしたり、焦ったりしたとき口に出して言うと、抑え込むんじゃなくて、ふわってシャボンに飛んでいく感覚で、楽になります。

今年は本当に本当につらく苦しく挫折した一年でした。

そこからトンネルを抜けて、頑張るのをやめて、走るのをやめて、アクセルを踏み込むのをやめました。

全イニング150km/h ストレートが絶対正しい

だったのが

マウンド立たなくてもいいやべつに

くらいまでなりました。

そしたらモテるようになった気がするww

こころをスポンジにたとえたとして

水を吸うスポンジもあれば
撥水性の高い水吸わないスポンジもあります

その2種類だけではなく、人の数だけあります

多分、どんなにがんばっても、水を吸う度合いは変えられません。

それはそう、そのひとらしさだから。
水をたくさん吸える良さ、水を弾ける良さ。

要は、何が心地いいか。

水を吸わない人は、吸いすぎる人の気持ちはわからない。それは悪いことではなく、仕方ないこと。だって、吸わないんだもん、もともと。

水を吸いすぎる人は、水が重くて。
重いと感じる自分を責めたり、絞るのをがまんしたり、水がたくさんやってくる場所にいる自分じゃないといけないんだと思ったりする。

わかるよ、わかる。

でも、吸うのも絞るのも自分で決めていいんだ、ほんとは。

水から距離を置くのもあり。

吸わなくてすむ場所に逃げてもいい。

伝わるかわからないけど、、 こころは変えられない。けど、楽になることを選ぶことは、たぶんできる。時間やお金がかかることもあるけど、、でもたぶんそのほうが

楽。

そんな感じです。

せっかく雨も止んだし夕方まで時間があるので、赤坂見附から、次の予定の南青山まで歩こうかな。

休職を言い渡された時に、真っ青な顔と絶望とともにあるいた、同じ道。

今、力を抜いて、わらってはたらけている自分で、あの日の轍を踏みしめてみる。

そんな2016年末です。

生きててよかった。
よくがんばった!おれ。

心を病むと、自然と「死にたい」という言葉が口を突いて出てくるようになります。


その「死にたい」は本当に肉体としての、人間としての死を希求しているのか?答えは千差万別だと思っています。


たとえば慣用表現で、「最悪、恥ずかしい・・・もう死にたい」と、恥ずかしい、という感情を強調するためにあえて極端な言葉を響きだけで用いているケース。

この場合は、その人は本気で「死にたい」なんて思っていないはずです。


ですが、うつの症状がひどくなってくると「死にたい」は真実味を帯びてきます。


今すぐ消えてなくなりたい。

誰か殺してくれないかな。

事故にあってふっと死ねないかな。


そんなことを当たり前のように考えるようになります。


当たり前のように考える・・・もうその状態になると、常に自分に対して


「死にたい」「死にたい」「死にたい」と暗示をかけ続ける(負のアファメーション)ことになります。


まるで肌いっぱいに呪詛が刻印されているかのように、暗闇に包まれる。


起き上がれなくなり、本を読んだり音楽を聴くことが出来なくなり、寝ている間だけが解放される時間だったりする。。


未来に希望なんて持てなくて、輝かしい(人に寄りますが)過去がキラキラして見えて、「なんで自分はあの時・・」と、過去との勝ち目0%の戦いがエンドレスに続く。


そしてまた思う。


「もうこんな人生いやだ、死にたい・・・」


僕は経験したので、本当によくわかります。


この「死にたい」に潜む真意・・・それはもう、ただ一言です。



らくになりたい


これだけなんです。


楽に、なりたい。


でも、力もでない。頭も働かない。誰も助けてくれない。病院に行っても解決しない。やすんでもどんどんつらくなる。

みんな、自分を見捨てたように感じる(本当は知識がなくてどうしてあげたらいいかわからないだけだとしても)。

1分1分が重く、くるしく、つらく、ながく、その暗闇が蛇のように永遠の未来にうねっているように感じて・・・


もう、ここから解放されたい


と思う。


その方法が、もっとも楽だと思われる方法が


死ぬこと


だと考えてしまう。

※これは、もう脳の液晶が濁ってしまっているから。認知が、ゆがみきってしまっているから。


でもね、その裏にあること。


苦しくて、つらくて、もう終わりにしたくて、、


それでも、こころのどこかに、元気な自分がいて、持っていること



「よりよく生きたい」


という思い。


死にたい、という、どん底の、八方ふさがりの中での、脱却のエネルギー。


その言葉には「楽になりたい」「そして、よりよく生きたい」という思いが隠れている。


今の僕にはそう思えるんです。


先も見えなかった。ずっとこの地獄が続くと思った。社会に自分の居場所はなくて、あとは死ぬしかないんだと思っていた。


でも、僕はこうして筆を執って、真っ暗闇の中で見つけた言葉たちを文字にして表現できるくらいに、元気になった。


死にたい、死にたい、死にたい


何万、何十万回つぶやいたかわからない僕。


でも、それは生への執着だった。よりよい生への執着。


過去への執着。他者への執着。


だから執着を捨てた。


残った空っぽの自分で、死を選ばずに、ただただ、毎日を過ごした。


死を選ばなかった。


生きたいんだということを認めて、少しずつ、自分にかける言葉を変えていった。


そして今がある。



「死にたい」


もし身近な大切な人が心を壊して、暗い顔で、下を向いて、もう誰も救ってくれないんだという顔で


「死にたい」


と繰り返すなら。。


あなたには何ができるだろう?何もできないかもしれない。言葉をかけることすらも。


でも、それはそうだとおもう。


「死にたい」のむこうがわの「生きたい」には、本人が気が付く以外ない。


本人がそれを認めて、「生きたい」を認めて、一歩踏み出すしかない。


周りができるのは、変わらず接して、必要だよと伝え続けて、さりげなく居場所を残して、それをわかりやすく伝え続けてあげるしかない。


ぼくの尊敬する人がそうしてくれたように、居場所と、必要なんだという思いと、いつもの笑顔。


それが僕をこの世にとどまらせた。



「死にたい」何度も言われたらつらい言葉。そしてちょっとうんざりする言葉。



でも「生きたい」という泣き声なんだと受け止めてください。


ただただ、言葉で、居場所で、思いで、抱きしめてほしいんだなと、そう思って許してあげてください。



「生きたい」


その言葉にいつかかわるまで。



はじめまして。「楽に生きる力」筆者です。


このブログでは、私がうつ病を経験して、立ち直ったことを振り返り、


・どうすれば楽に生きられるか

・ストレスを乗りこなしながら死なずに生きられるか

・どんな考え方や対処方法がのぞましいのか


をあくまで個人的な見解でストックしていくブログです。


昨今、誤った医療情報を掲載し問題になったメディアなども散見しています。


私は医療行為はするつもりはなく、あくまで自身が経験したことをベースに


「楽に生きる力」とは何か、なぜそれが心地いいのか、より良い人生をもたらすと考えるのか


を記事にしていきます。


ゆるく、軽い気持ちでごらんください。


なお、本ブログにはうつや抗うつ薬についての一般論や、病気に対する対処方法について個人的な経験に基づいた内容を記載する場合がありますが、それらの記載はあくまで私の主観であり、全てが医学的見地や根拠に裏付けた内容では無い場合があります。

したがって、本ブログの著者は、本ブログに記載された情報を利用あるいは誤用したことが原因で何らかの健康被害が生じたとしても、その責任を負うものではありません。

特に薬剤を用いた治療を変更、中止、開始しようとするときは、医師の指導を必ず受けてください。

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