001_本当に「死にたい」のか
心を病むと、自然と「死にたい」という言葉が口を突いて出てくるようになります。
その「死にたい」は本当に肉体としての、人間としての死を希求しているのか?答えは千差万別だと思っています。
たとえば慣用表現で、「最悪、恥ずかしい・・・もう死にたい」と、恥ずかしい、という感情を強調するためにあえて極端な言葉を響きだけで用いているケース。
この場合は、その人は本気で「死にたい」なんて思っていないはずです。
ですが、うつの症状がひどくなってくると「死にたい」は真実味を帯びてきます。
今すぐ消えてなくなりたい。
誰か殺してくれないかな。
事故にあってふっと死ねないかな。
そんなことを当たり前のように考えるようになります。
当たり前のように考える・・・もうその状態になると、常に自分に対して
「死にたい」「死にたい」「死にたい」と暗示をかけ続ける(負のアファメーション)ことになります。
まるで肌いっぱいに呪詛が刻印されているかのように、暗闇に包まれる。
起き上がれなくなり、本を読んだり音楽を聴くことが出来なくなり、寝ている間だけが解放される時間だったりする。。
未来に希望なんて持てなくて、輝かしい(人に寄りますが)過去がキラキラして見えて、「なんで自分はあの時・・」と、過去との勝ち目0%の戦いがエンドレスに続く。
そしてまた思う。
「もうこんな人生いやだ、死にたい・・・」
僕は経験したので、本当によくわかります。
この「死にたい」に潜む真意・・・それはもう、ただ一言です。
らくになりたい
これだけなんです。
楽に、なりたい。
でも、力もでない。頭も働かない。誰も助けてくれない。病院に行っても解決しない。やすんでもどんどんつらくなる。
みんな、自分を見捨てたように感じる(本当は知識がなくてどうしてあげたらいいかわからないだけだとしても)。
1分1分が重く、くるしく、つらく、ながく、その暗闇が蛇のように永遠の未来にうねっているように感じて・・・
もう、ここから解放されたい
と思う。
その方法が、もっとも楽だと思われる方法が
死ぬこと
だと考えてしまう。
※これは、もう脳の液晶が濁ってしまっているから。認知が、ゆがみきってしまっているから。
でもね、その裏にあること。
苦しくて、つらくて、もう終わりにしたくて、、
それでも、こころのどこかに、元気な自分がいて、持っていること
「よりよく生きたい」
という思い。
死にたい、という、どん底の、八方ふさがりの中での、脱却のエネルギー。
その言葉には「楽になりたい」「そして、よりよく生きたい」という思いが隠れている。
今の僕にはそう思えるんです。
先も見えなかった。ずっとこの地獄が続くと思った。社会に自分の居場所はなくて、あとは死ぬしかないんだと思っていた。
でも、僕はこうして筆を執って、真っ暗闇の中で見つけた言葉たちを文字にして表現できるくらいに、元気になった。
死にたい、死にたい、死にたい
何万、何十万回つぶやいたかわからない僕。
でも、それは生への執着だった。よりよい生への執着。
過去への執着。他者への執着。
だから執着を捨てた。
残った空っぽの自分で、死を選ばずに、ただただ、毎日を過ごした。
死を選ばなかった。
生きたいんだということを認めて、少しずつ、自分にかける言葉を変えていった。
そして今がある。
「死にたい」
もし身近な大切な人が心を壊して、暗い顔で、下を向いて、もう誰も救ってくれないんだという顔で
「死にたい」
と繰り返すなら。。
あなたには何ができるだろう?何もできないかもしれない。言葉をかけることすらも。
でも、それはそうだとおもう。
「死にたい」のむこうがわの「生きたい」には、本人が気が付く以外ない。
本人がそれを認めて、「生きたい」を認めて、一歩踏み出すしかない。
周りができるのは、変わらず接して、必要だよと伝え続けて、さりげなく居場所を残して、それをわかりやすく伝え続けてあげるしかない。
ぼくの尊敬する人がそうしてくれたように、居場所と、必要なんだという思いと、いつもの笑顔。
それが僕をこの世にとどまらせた。
「死にたい」何度も言われたらつらい言葉。そしてちょっとうんざりする言葉。
でも「生きたい」という泣き声なんだと受け止めてください。
ただただ、言葉で、居場所で、思いで、抱きしめてほしいんだなと、そう思って許してあげてください。
「生きたい」
その言葉にいつかかわるまで。
000_はじめに
はじめまして。「楽に生きる力」筆者です。
このブログでは、私がうつ病を経験して、立ち直ったことを振り返り、
・どうすれば楽に生きられるか
・ストレスを乗りこなしながら死なずに生きられるか
・どんな考え方や対処方法がのぞましいのか
をあくまで個人的な見解でストックしていくブログです。
昨今、誤った医療情報を掲載し問題になったメディアなども散見しています。
私は医療行為はするつもりはなく、あくまで自身が経験したことをベースに
「楽に生きる力」とは何か、なぜそれが心地いいのか、より良い人生をもたらすと考えるのか
を記事にしていきます。
ゆるく、軽い気持ちでごらんください。