その後、水野信元は、尾張と三河の両国の間を取り持ち、互いに一目置かれる存在となります。
明確な配下ではなかったでしょうが、織田傘下の支配的同盟関係としても松平徳川の血縁者として独特な地位を築いていました。
三河で一向一揆が起これば、甥の助太刀をしたり和解を取り持ったり。
浅井朝倉との姉川の戦いにも参戦。
三方ヶ原の戦いでは信長から援軍として派遣され、長篠の戦いでも活躍しました。
その長篠の年の暮れ十二月。
佐久間信盛の讒言がきっかけとなり、信長の命令で家康が信元とその息子を処刑します。
これにより水野家は滅亡します。
信長も家康も、ここまで大きくなれたのは、信元の多大なる貢献があったのを忘れた訳では無いでしょう。
それを告げ口だけで処刑までしますかね…。
よく似た前例に家康の息子の信康と妻の築山殿が、やはり密告により処分されています。
それは信長が家康との序列を明確にする為とも、本当に武田と通じていたとも言われていますけど、信元にもそのままを当てはめて良いものか…。
考えられるのは、信長も家康も互いに利害が一致したのだと思います。
この頃の織田は拠点を安土に移し西へと勢力を広げて行く時期で、家康も武田勝頼を長篠で打ち破り追撃に転じている頃。
外へ外へと領土が広がる自国の背後にあるのは刈谷緒川の、あの水野信元ですからね…。
信長もまた、三河と組んだらと考えても不思議はありませんよね。
何しろ、水野信元という男は、裏切りと寝返りを重ねて戦国の世を生き抜いてきた男。
極めて危険な人物に他なりません。
信元の処世術が、逆に水野を滅ぼす事となったと考えます…。
ところが僅か数年後、佐久間信盛が追放されると信元の疑いが突如晴れます。
家康の臣下にいた信元の弟、忠重を信長が預かり水野宗家刈谷城主に据えます。
織田家の家来として水野家は復活。
忠重は織田信雄から豊臣秀吉に仕え、家康と石田三成の対立が激化する中で池鯉鮒で殺害されます。
その跡を家康の臣下にいた息子の勝成が継ぎ、水野家は江戸時代に入ってからも続きます。
一族から江戸幕府で家老や老中を幾度も輩出し、天保の改革で知られる水野忠邦も水野家の血筋にあたります。
コメント一覧