緒川城から半田街道を北上すると、JR武豊線尾張森岡駅の近くに村木砦があります。
水野家最大の激戦、村木砦の戦いはこの一角で起こりました。
第三次安祥合戦で敗れた織田領と水野領は、その後もじわじわと今川義元の侵略を許します。
尾張の虎、織田信秀が病で亡くなるとその跡を息子の信長が継ぎました。
しかし家臣の中から、普段から素行の悪かった信長から離反し、今川側に寝返る者も出始めます。
尾張前線の要であった鳴海城の山口教継もその一人でした。
教継は鳴海城内に今川家の重臣、岡部元信を招き入れ、自身は息子とそれぞれ笠寺と桜中村に城を築き徹底抗戦の構えを見せます。
更に隣接する沓掛城と大高城も手に入れ、尾張と緒川、刈谷を結ぶ道が遮断されます。
これが桶狭間の戦いの舞台となるのはもう少し先の事。
今川義元の手は水野信元の元へも押し寄せます。
三河と尾張の国境近くの重原城が今川軍に落とされ、水野家の刈谷城が孤立。
更に知多では寺本城の花井氏が寝返り、西海岸への道が塞がれました。
そして水野信元への仕上げとして、緒川城の目と鼻の先、ここ村木の岬に砦を築いたのです。