お知らせ

丸根砦を出て、坂を登り峰沿いに歩きます。
途中、こんな目印があります。

そうなんだよ。
この交差点を曲がりそびれると、とんでもない方向に行っちゃうんだ💦
起伏も激しいから、戻ってくるのが大変です。

茂みに沿って歩くと見えて来ます、鷲津砦。

信長公記などでも有名な、大高城と鳴海城を繋ぐ名和街道を分断する砦です。
これにより海岸線のルートも封鎖され、大高城は完全に包囲されてしまいます。

元康の兵糧入れが成功した翌早朝、丸根砦と同時に攻め込まれて陥落します。
攻撃したのは朝比奈泰朝…あれ?

看板は父親の泰能になってますね…。
太原雪斎と同時期に亡くなられてると思うんですが。
たぶん泰朝で間違い無いと思うんですが、まあ調べてみて下さい。

泰朝で進めます。
この朝比奈泰朝ですが、鷲津砦攻略の段になって突然名前が挙がります。
おそらく、元康の兵糧入れと同じ部隊で大高城に入ったのではないでしょうか。
更にもう1人、井伊直盛の名前がここの戦いで出る事があります。
あの徳川四天王の井伊直政の養父にして、おんな城主直虎の父親です!
大高城の要衝、丸根砦を突破し攻め落とそうって作戦ですもんね。
それなりの武将や兵の数を動員しても不思議じゃありません。
織田の守備陣が丸根で多く見て500人と言われています。
他の砦も同じくらいだとすると、合わせて2500人くらいでしょうか。
今川軍はその倍以上を用意するでしょうね。

でもさ、そうなると今川義元の本隊の数が、相当減ってしまう可能性があります。
2万5000人と言われる駿府からの動員数。
その5000〜6000人が大高に行き、桶狭間の中継地点では瀬名氏が陣の用意を数日かけてしていた話もあります。
他にも物資輸送の為の非戦闘員もこの規模の行軍ですから、2万5000人の内かなりの数になるでしょう。
義元が大高城に入る為の地ならしの予定ですから、何も心配していなかったのでしょうね。
…この段階では。

丸根、鷲津の両砦陥落の知らせを聞いた今川義元本陣は、中継地点の桶狭間で足を止めます。
そして、織田信長が前線に現れた知らせも。
次第に天候は悪化し、激しい雷雨が両陣に降り注ぎます…。

大高最大の激戦地、丸根砦に入ります。

入口は3つありますが、この北側の入口をお勧めします。

丸根の「根」とは丘の意味です。
この辺りに、高根、長根、大将ヶ根などの地名がありますが、丘陵地の事です。
ここはお椀を被せた様なドーム型の丸い丘になってます。
丸いから丸根、ストレートなネームですw

大高道の出口の真上にあり、沓掛城からの補給を断つ重要な砦でした。
守備に就いていたのは、織田家重臣の佐久間大学盛重。
ここがいかに大切な砦だったかが伝わります。
結果として兵糧入れの翌日に桶狭間の戦いは終結しますが、今川義元は当初、長期戦を想定していたと思います。
義元が狙ったのは上洛ではなく、信長の首、尾張一国だったのは間違いないでしょう。
その本拠地を大高城にして、清洲城を攻略する構想だったと思います。
沓掛城と違い海に接している為、駿府からの補給に海路が使えた点、鳴海城を出城に防御も優れた点等。
大高城に自らが入る事で士気を上げ、長く続いた尾張織田との戦いに終止符を打つつもりで望んだ大戦だったはずです。

だが今川軍が大高城に入るのに、どうしても邪魔になるのがこの丸根砦。
更にはその鳴海城を囲む砦を織田軍は本拠地にして、陣を構えるのが想定されます。

織田軍も兵の数では今川軍に及ばない面を隣の鷲津砦や正光寺砦と連携して、いずれかが攻め込まれたら援軍を送るシステム構造的な防御策で対抗していたと言われてます。

しかし、不思議なのはこの重要な砦を攻め落とすのに今川義元は、なぜ大した実績も無い松平元康を抜擢したのでしょうかね。
義元本隊で攻め落としたって説もありますが、さて…。

真円に近い形をしているので、曲輪に沿ってぐるっと一周できます。

砦の頂には供養塔があります。

元康の攻撃によって砦は陥落。
陣は全滅し、佐久間盛重始め、多くの戦死者を出しました。
毎年、6月初旬になると地域の人によって供養が行われています。

沓掛方面と大高を結ぶ道、大高道が正光寺砦と丸根砦の間にあります。

これが大高道の出口。
交差するのは大浜街道です。
真上は東海道新幹線。

大高道は、今は生活道路になってます。
途中、車で通行できないくらい狭い所がありますが、当時の名残を感じる道です。

この道を進むと桶狭間を通り、前後、二村台から沓掛城に辿り着きます。

元康はここより、もっと手前で道を逸れたと思います。
だってここ、丸根砦の真下ですもんw

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