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日本人ではじめて「有人飛行器」の設計を行った二宮忠八(ちゅうはち)

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世界ではじめて有人飛行に成功したのはライト兄弟だが、もしも忠八が設計した 「玉虫型飛行器」 が軍の上層部に採用されていたら。。。

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世界初の有人飛行は忠八が成功させていたかもしれない

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それほどまでに忠八の設計は実現可能なものであったし、飛行原理も申し分ないものだった


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1866年、伊予国宇和群八幡浜裏矢野町(現在の愛媛県八幡浜市矢野町)に生まれた忠八は、幼い頃から好奇心旺盛で、自分の手作りの凧を飛ばすことを楽しみにしているような少年だった

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忠八がいつか空を飛んでみたいという漠然とした夢を抱くようになったのは、きっと少年時代からだと推測されるー


忠八が飛行原理を発見したのは陸軍に徴兵されたときのこと💡


カラスが翼を広げながら舞い降りてくる姿を目にして、翼を動かさなくても飛べる ということに気付いたという

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いつしか自分で飛行器を設計して飛ばせてみたいという想いを強くした忠八は、研究・制作に必要な資金を稼ぐために陸軍を辞し、製薬業に転身して飛行器制作実現に邁進していくこととなるー

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ところがそんな矢先、忠八の許に 「ライト兄弟が飛行器による飛翔に成功」 の一報🗞が入る


深い悲しみに暮れた忠八は、それまでわが子のように大事にしてきた飛行器模型をハンマーで砕いてしまったという。。。


が、もちろん忠八のココロが癒されるハズもなくただ時間が過ぎ去るのを待つしかなかった.。oO

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その後、陸軍から製薬業へと転身していた忠八は 現在の職こそ転職!と考え、会社の経営に勤しんでいた


陸軍時代、軍に提案していた飛行器が欧米諸国に先駆けたものであったことも認められており、忠八の努力は報われていたのだ


しかし以降、自身が考えたことのあった飛行機による事故が多発していくにつれ、忠八の中にある犠牲者を弔う気持ちも抑えきれずにいた


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そこで忠八は磐船神社に詣でて分霊してもらい、自宅の庭に社を建てて 世界の飛行機による死者霊を祀ることにした

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その神社が現在の 「飛行神社」 であり、またこのときに忠八は同時に神職の資格も得たという


忠八は1936年4月、71歳でこの世を去っているが、晩年になって一度だけ飛行機に乗ったことがあり、このときに忠八はこんなことを述べているー


「若い頃、毎晩夢で見ていた飛行機に乗るときの気持ちとまったく変わらなかった」

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このような事績から、二宮忠八は 「航空機の父」 と呼ばれることがある

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もしも陸軍に忠八の設計案がもっと積極的に採用されていたなら、彼の名前はもっと多くの人々が知ることになったに違いない.。oO








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かれこれ10年もののジルサンダー×UNIQLO

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