DSC_0055.JPG



DSC_0058.JPG

松浦武四郎 像

今年、2018年は、ぼくの生まれ故郷でもある北海道が150回目の誕生日を迎えます。

北海道は、元々 蝦夷地(えぞち)または~蝦夷島(えぞがしま)と呼ばれ、古くは飛鳥時代に阿倍比羅夫が蝦夷(えみし)征討のために上陸し、鎌倉幕府に追われる身となった源 義経と一行が奥州 平泉で藤原泰衡に急襲され、実は平泉から逃れ、北海道に流れ着いたという伝説は、北海道の至るところに伝わります。

さらに戦国時代に数々の計略の末に成り上がった若狭 武田氏に繋がる蠣崎(かきざき)氏 が道南地域に盤居して、豊臣秀吉~徳川家康といった時の絶対権力者に巧みに近づいて気にいられて大名となり、松前氏と改名し北海道での地位を確立し、その支配を幕末まで続けました。

その松前氏が蝦夷地を支配する江戸時代後期、一人 松前藩の医師の下僕が渡って来ました。

松浦武四郎でした。
松浦武四郎は、伊勢国(現在の三重県)松阪の比較的裕福な庄屋の家に生まれました。武四郎の出た松浦家は、古くは肥前 平戸を治めた松浦氏に繋がる一族で、平戸から伊勢に移り住みました。
当時、江戸の人々の空前の流行となった伊勢参りを眺める中、武四郎は16歳の時に諸国を旅する決意を秘め、一族の故郷でもある平戸にたどり着きます。
平戸の地で、遥か北の蝦夷地がロシアに狙われていると聞きつけ、蝦夷地に興味を持ち、蝦夷地を探険しようと思い立ち、蝦夷地を支配する松前藩の藩医の下僕の身分を得て上陸したのが始まりでした。

武四郎は、かつて日本全国の地図作成と測量のために蝦夷地を回った伊能忠敬とは違い、未開の地だった蝦夷地の内陸部にまで入りました。

そこで武四郎は、先住民であるアイヌを行く先々で案内人になってもらい、各地を回る中でその土地のアイヌ達と交流を深めました。

自然を畏怖し、誰もが優しく素朴で独特の文化を口伝えで継承するアイヌ人に魅了されます。
しかし、そのアイヌ人を酷使し、収奪の限りを尽くす松前藩と商人らに怒りを持ち、窮状を度々訴えるも幕府が本腰を入れて動くことはないまま幕府は倒れ、時代は明治となりました。

武四郎は幕府が倒れて東京へ移ります。
明治新政府は広大な蝦夷地の開拓を推し進めるために、新たな役所~開拓使を設置、かつて蝦夷地の隅々まで探険した武四郎を開拓使に招きます。

1868年 明治2年7月17日、かねてから政府に願い出ていた蝦夷地の名称変更の許可が降り、複数の候補から、かつて出逢ったアイヌの長老~アエトモから教わった【カイ】という言葉を思い出します。

【カイ】とは、この地で生まれた者という意味がある。

武四郎は、蝦夷地をカイ~つまり、蝦夷地に変わる新しい名をカイ~アイヌ人の土地という意味を込めて北~加伊~道~と字を最初に当て、さらに加伊の字には蝦夷地の四方を覆う海の字を当てます。

1868年 明治2年8月15日、武四郎は【北海道】と正式に命名、ここに北海道が誕生しました。

命名の後、道内各地の地名は、アイヌ語の地名を漢字に当てて作っていきました。

命名の翌年、明治3年、武四郎は、政府と時代が変わっても無くならないアイヌ人への差別、酷使、収奪に抗議する形で役職を辞して北海道を去りました。

写真の像は、探険して歩く中、帳面に記す武四郎の様子を再現したものです。
今年は北海道開道150年の節目とともに、松浦武四郎生誕200年にも当たります。


DSC_3466.JPG
事後報告になりますが、帰省しています。
何かと忙しい日々に辟易です。

飛行機内から富士山が顔を見せました。

DSC_2967.JPG
DSC_3081.JPG

牧之原大茶園
~島田市 菊川市 牧之原市 ~

大井川西岸を起点に広がる牧之原台地は、島田市、菊川市、牧之原市、そして最南端の御前崎市と、四つの市にまたがる標高100~200メートルの広大な台地です。

江戸時代までは、石が多くて水利の悪い土地のために米作に向かず、ほとんど未開の原野でしたが、明治時代になると、将軍職を失った徳川慶喜を江戸から護衛してきた徳川家臣団らがこの台地に入植して来ました。

およそ食料となる作物を作るのに不向きな台地のために、入植当初は筆舌につくせない苦難の末に茶の生産に成功すると、旧徳川家臣団らに加えて職を失った大井川の川越人足らも加わり、茶の生産を始める人々が増えていきました。
未開同然だった牧之原台地は現在、大部分が茶園へと様変わりし、島田市、菊川市、牧之原市と3市にまたがる総面積5300ヘクタールの一大茶園となり、静岡県下一、また日本の茶生産の1割以上をこの台地で占める規模を誇ります。


↑このページのトップへ