目覚めとは、無であり無限である「わたし」の正体を思い出すこと、
ということを前回書きましたが、
じゃあどうすれば思い出せるのかというと、
これまで、わたしは無、空、形のない意識ですよ、宇宙は真空から生まれたんですよ、などの記事を何回か書きましたが、それを読んだだけでも思い出す人は思い出しますし、
これからもいろんな方法でそのことについて書いていきたいと思っていますが、
無、だとか、空と言われても???
と思う人がほとんどだと思います。

ここで、うん、そうだよね、と納得できる人は、
前世か今世ですでにそのことを知っている人でしょう。

よく、無を体感するために、瞑想するといい、と聞いたことのある人も多いかもしれませんが、
それはなぜかというと、
思考すると創造してしまうので、
瞑想して思考を止めることができたら、創造を止めることができるので、
自分という認識を消して、無を垣間見ることができるわけです。
これが、いわゆる一瞥体験。
瞑想以外でも、何らかの要因で起こることはあります。
ただ、一瞥体験というのは、
わたしの実体というのは無なんだ、ということを体感し思い出すためのひとつの方法というだけであって、これを体験しなくてはいけない必須のもの、ということではないです。
こうした経験が起こるのは過去生の積み重ねによって真理に近づいているから、
ということは言えると思いますが。

そしてこの体験は、目覚めとは言えますが、解脱や悟りではありません。
それらは、またその先にあります。
(臨死体験とかチャネリングで繋がれる世界というのは、だいたい4−6次元ですので、この体験とはまた別のものになります)

要は思い出し、納得している状態になればいいので、これ以外にも方法はあります。
その代表的なのが、物理学者たちですね。
彼らは、論理的に、宇宙は無なんだ、ということを導き出し、それを「知っている」「思い出している」という状態にたどり着いています。
(ただし、先ほどと同じで、解脱や悟りはまた別物です)
そうした科学の本を読んで思い出すこともできますし、
わたし=無、空、形のない意識、ということを解説しているものを読んだり聞いたりして、自分なりに考えて考えて考え抜いて、思い出すこともできます。

何かを思い出す時って、何をしてるかってあんまり関係ないと思うんです。
例えばあなたが出かけるときに家に忘れ物をしたのを思い出したとします。

ただ歩いてて思い出すこともあるし、
何かを見て思い出すこともあるし、
何かを聞いて思い出すこともあるし、
何かを体験して思い出すこともあるし、
いろいろだと思います。

きっかけはなんでもいいんです。
瞑想であっても、ただ電車に乗っていても、本を読んだり、誰かと話したり、何かをみたり、なんでもいい。
「思い出す」ことさえできれば。

そしてみんな、
この人生かもしれないし、
この先の人生かもしれませんけど、
とにかくいつかは思い出します。
すべての生命はまずそこを目指しています。
(そして思い出したらその先があるので、そこは最終地点ではないですが)


(つづく)

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note では、宇宙のはじまり、世界のしくみ、わたしの実体について、詩的に感覚的にお伝えしています。