凡そ6年ぶりに作品批評をする。
その間のすべての文章は、僕の基準では批評ではない。
そう思ってほしい。

それくらい、この作品には一度ガチでぶつかってみたい。そう思ったのだ。


「批評とは政治だ」
と種明かしをしてしまった以上、僕の言説はより強い色眼鏡で見られることになるだろう。
しかしそんなことに臆していて批評家など務まるものか。当然だ。

『この世界の片隅に』が『君の名は。』や『聲の形』なんぞを遥かに凌ぐ、2016年アニメ映画のナンバーワンだということは自明すぎて、そんなものは観なくても解る。
それが「批評家」の仕事であり、能力である。
何度も言うが、批評家は学者ではない。


原作は敢えて再読せずに行った。
そういう細部の比較に専念したくなかったので。
どうせもう一回、いや二回と行くのだから、その間に読もう。そう決めていた。


そして今日、観た。


僕の予想は儚くも崩れ去ってしまった。


これは今年ナンバーワンどころの話ではない、紛れもなくこれは「歴史的偉業」であり、もっと言えば、「事件」である。
つまり、他のありとあらゆる過去の作品を葬り去るくらいの威力のある「破壊的」な作品なのだ。


奇しくも先日引いた「映画崩壊前夜」になぞらえるなら、こう言えるだろう。

「『この世界の片隅に』をもってアニメが今日終焉を迎えても、誰も後悔はしまい。
それが『死の前夜』を絶えず生き抜く私達の、当然の振る舞い方だ」。


僕達は明日から、もうアニメを作ることも、語ることすらもできないのではないだろうか?
画面を観ながら、何度もそんな不安がよぎった。


ましてや、この作品を観て号泣したなどと言うなかれ。
この作品は、すべてのカットが、もはや泣くことも許されない程の戦慄に満ちている。むしろ泣いた泣いたと軽薄に呟く輩の耳元で、悪魔がこう囁くだろう。
アニメはもうこれで終わりだよ、と。

夥しい数の全てのアニメ作品を無に帰す、そんな悪魔的な魅力のある作品、それが『この世界の片隅に』だ。


僕らはこの作品を「大傑作」と称賛する資格すら与えられていない。
そう、もちろん僕も。


それでも僕らは、アニメの「未来」を信じて、この作品に立ち向かってみよう。
作品批評をやると決めたのだから、やるしかない。



『この世界の片隅に』には、三つの「奇跡」がある。


一つ目は、世界観(原作)の「奇跡」。
僕もうっかり忘れていたのだが、この作品は、形式で言えば喜劇である。
必ずフリやオチがあるのだ。
北條のお義父さんがすず達を庇って倒れるシークエンスなどは典型的だろう。

そして、この作品全体に満ち溢れる、牧歌的な空気。
さらにあの絵柄(キャラデザ)。


二つ目は、演出の「奇跡」。
原作は上・中・下巻のコミック、しかもコマ割りも細かめなので、結構な量だ。
それを2時間の尺に押し込んだ。
それだけでは飽き足らず、セリフや会話をあえて重ねたり、パンフォーカスを徹底したり、ロングショットを多用したり、とにかく処理しきれない情報量で攻め立てる。
更に方言。えらい騒ぎだ。


三つ目は、のんの「奇跡」。
のんは不世出の天才か?なんという不可思議な才覚!もはや名優を超えて怪優と言うべきだろう。
それを発見した、片渕監督の慧眼。


・・・と、この三つを主なテーマに、なんとこの批評、連載にしようと思う。
すいません実は、僕も画面の何割かは涙で見えませんでした(笑)。
だからあと数回見て、いや何度も観て、「対決」しようと考えている。
久しぶりに批評をやるのだから、変な書き散らかしはプライドに障る。



今言えることは、少なくとも、この10年間本当になかった感情だが、この世にアニメがあって、本当に良かった。
僕は今、こころの底からそう思っている。
「救われた」と思う瞬間。これがあるから、やめられないんだろなぁ。

15年前の『千と千尋』評で引用した、クロプシュトックの賛歌に基づくマーラー「復活」の歌詞を再度引用して、ひとまず終えよう。


 生まれたものは滅びなければならぬ。
 滅びたものは甦らねばならぬ!
 おののく事を止めよ!用意せよ!
 生きる為の用意をせよ!