10代の頃は根拠の無い自信ばかりだった。
自分は何者でもないクセに、 静かなる自信があった。

思い返すとアレは「感性」だった。そして「創造性」の源泉のようなものだった。


『ワイルドマウンテン』や『安住の地』、『ありがとう』を読んでいるのは、僕と僕のまわりだけだった。

ミズーリ州の変なバンドや残響レコードのバンドを聴いているのも、僕と僕のまわりにしかいなかった。


あの頃、自分でそれらを表現したり、作ったりはできなかった。だけどずっと思っていたことがある。

それが「俺は他のやつらより面白いものを知っている」だ。

要約すると「自分が持っている感性やセンスみたいなものは凄い!口だけでまだ何もできないけど!」となる。


ワンピースやNARUTOほど知られていないけど、絶対に自分の好きなマンガの方が面白いと信じていた。僕の中でミスチルよりカッコいいのは、TTNGやCAT CAT CAT、KBCだった。


そしていつか同じ「感性」のひとが僕の前に現れるはずだった。


だけど『ワイルドマウンテン』や『安住の地』や『ありがとう』のファンは僕の前に現れなかった。
スガちゃんの話やミナミの話、お姉ちゃんの話をできるやつは未だいない。

perfect piano lessonやルルルやMake Believe、Rx Banditsが好きなひとも現れない。


世の中の感性と自分の感性はズレていた。

「いつまでも自分は世の中と整合しないのかな」と落ち込みもした。敗北感もあった。
僕という個が、ホモサピエンスという種の中で淘汰される音が聞こえた。


だけどMOROHAやbachoがいることに世の中は気付きだしたし、岡崎体育にだって気付いた。スプサマだってシリカだってsusquatchだって、きっとそうだ。

「こんなもん出たら世の中ひっくり返っちゃうよ!?」と自分が信じていた作品がある。

主流にならなかったことも何度もあるけど、それも全部まだ途中なのだ。まだ分からない。

ハイスタが、ナンバーガールが、バンアパが9mmがちゃんとひっくり返した。


そんなカウンターカルチャーが大好きだった。

サブカルってことなのだろうか?

僕の心を魅了したアレらは、そんなショボい言葉に収まらないような気がする。もっと根源的なカウンターを感じる。


何者でもないのに、根拠の無い自信があるやつは、ちょっと苦しい。
自分の中の温度と、まわりの温度の差に心が痛くなる。

でも内と外に温度差があると電気が発生する。温度差があるところにはエネルギーは生まれる。それは磁場となり、何かを引き寄せもする。

僕のようなやつの身にも何度もいろんなことが訪れた。何度だって訪れる。


同じような人間がここを読んでいるならば、僕は何かを作って何かをひっくり返さないとなぁと思う。

それはもうやらねば思う。男なのだから。


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