月別アーカイブ / 2017年02月

2月が終了する。
咳が出始めて22日目なので、6日間しか健康でいられなかった。だけど、不思議とその6日間より後の22日間の方が良い日だったように思える。

この22日間があることで健康の有り難みに気付けたり、まわりのひとの有り難みにも気付けたりした。
自在に歌えたり、自在に作れたりすることも、じつは当たり前のことではなかったのだと思う。


昨日、ガンを克服した友達と話した。近いことを言っていた。「幸せであることに気付いた」と言う話だった。なんだか以前より大物になった雰囲気を纏っていた。

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世の中には、不自由になることで見えることがたくさんある。不幸と幸福、不自由と自由、苦痛と快楽は別枠ではないらしい。

空腹があるから食事の喜びがあるし、勤労があるから休日の喜びがある。

たぶん空腹は苦痛なのではなくて、食事の喜びとワンセットの現象なのだと思う。苦痛を嘆くだけじゃなくて、その苦痛を味わえる人間が壁を超えていくのだろう。

『本気で演りたい』のロストデイはそんなスピリッツを歌っている。

僕たちには日々の「当たり前」がたくさんある。どれもこれも失くした日に気付く。僕は僕に失くす前に気付いてほしかった。


それでも大事なものを失くし続けて、嘆き続けている気がする。会えていたのに会えなくなった人や、訪れていたのに行けなくなった場所がどんどん増えていく。

変えられるはずの未来や明日は変えようともしないのに、変わりもしない過去や昨日ばかり変えたがっている。変えられるはずの自分を変えようとせず、他人ばかり変えようとしている。

人間をこれ以上やっていくなら、そんな負の螺旋をどこかで終わらせないといけない。今あるものに手を合わせて、高めていく必要がある。

先日ドミノ倒しをやる機会があった。

「ドミノ倒し」って、みんな知ってはいると思うけど、実際にやったことがあるひとは少数派ではないだろうか。普段やらないし、やる意味もちょっと難しい。アレ何でやるのだろうか。儀式かなんかなのかな。
学校の部活とかでも「ドミノ部」なんて無かったし、もちろんドミノ倒しの授業も無かった。

まぁ、そんな世にも珍しい「ドミノ倒し」をプレイするチャンスに恵まれた。

次々とドミノを並べていると、やたらとドーパミンが出た。単純な反復作業って、瞑想っぽい感覚になる。ビニールに古本を入れ続ける仕事をやっていたことを思い出した。

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ドーパミンが出すぎたせいだろうか。
ドミノを並べながら、「なんだか人生みたいだな」と感じていた。

ひとつひとつの出来事が起きて、「僕」の人生が続いていく。そして、最後のひとつがバタッと倒れて、一生を終える。

今、僕がここにいて、息をしているということは、後ろ(過去)のドミノが全て順番に倒れてきたということだ。
もし、どれかひとつでも欠けていれば今の「僕」にはなっていない。
ドミノのひとつひとつが「その時点での結果」になっている。そして、同時に「次のドミノを倒す原因」にもなっている。

「今日の自分」は今までの人生で一番のキャリアを積んだ熟練者だし、これからの人生で言えば、一番の未熟者にあたる。

後から考えたら「あのときは未熟だった」と思うことばかりだ。
それでも、現状の最新ドミノを倒すしかない。また後から「今の俺ならもっとうまく倒せた」と嘆くのだろうけど、それは後になって分かることだ。今の力量で、うまく倒すしかない。

そこに成功も失敗も無い。
一般的には「失敗」と呼ばれる倒れ方だったとしても、その倒れ方があって、今のドミノになっている。「成功」に見える倒れ方では手に入らなかったものもある。

どんなひともどんな些細な現象も、人生を成り立たせる上で「どれが重要で、どれが重要でない」ということは無いのかもしれない。

たぶん、全部必要なのだと思う。

目の前のことをちゃんと大事にやって、なんとか最高の倒し方でドミノを倒すしかない。そして、また明日はその日のドミノを倒す。

目の前のことに悩んだり苦しんだりしていても、仕方ない。

受けていれて肯定して、困難な状況なら、「困難な状況」というドミノを倒すしかない。

起きたこと、起きることはすべて自分のために必要だったと受け入れていくと、楽になれる。

ドーパミンが出すぎて、危ないひとみたいになっていた。元から危ないか。

また熱が出た。
これもまたドミノだと思って、受け入れる。

ツアーが終わったので、ギターを改築する。
これもまたドミノか。
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憧れている人物がいる。
みんないると思う。挙げてみてほしい。有名人、友達、誰でもいい。5,6人ぐらい挙げるといいと思う。

次にそのひとたちの「どこに魅力を感じてるか」を書き出してみる。
 
なんでも、それが「自分に今欠けている部分」だそうだ。


僕の場合
 
「イラつかない(イラついていなさそう)」
「人になつける」
「前向き」
「迷いがない(なさそう)」
「元気」
「明るい」
「優しい」

こんなものが挙がる。
憧れているひとはこれらを兼ね備えている感じがする。
そして僕には、これらが足りていないということになる。
 
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たしかに、自分のことを思うと、「沸点が低くて疑ぐり深くて、悲観的で思い切りが悪くて、体調が悪くて、暗くて乱暴な人間」だなぁと思う。

こう書くと絶対なりたくないぐらい嫌な人間だ。でも、もちろんいつもフルMAXでこの資質が稼動しているわけではない。

これらが出る瞬間があったり、今まで出してきたということだろう。
そして僕はこれらを生理的に受け付けない人間なのだと思う。だからこそ、たまに垣間見える自分のそういう部分が気になってしまう。

短所は短所というより、「自分の美意識が許せない部分」なのかもしれない。
同族嫌悪という現象はそれの象徴に思える。自分が「許せない」と思っているものを、露呈している他者を受け入れるのは難しい。

でも、そう考えると「短所」を受け入れていける気もする。「美意識が許さないだけだ」と思うことで、短所が長所にひっくり返るときがある。

「足りていない部分をどう補うか」を考えていければ、長所になるのも時間の問題だった。

自分に足りていないものを持っているひとに助けてもらったり、見えないように隠したりしていく。

「自分に足りていないものを持っているひと」は他のものも持っていたし、僕が短所を隠すことで別の部分が際立つことがあった。これらは短所無くして、手に入らなかった。


ひとに助けられたら、代わりに自分が足りている部分を与えられたら、なんだかいい。
大事なひとに喜んでもらえる人間になれたらもっといい。
人と人の間で生きて、初めて「ヒト」から「人間」になるそうだ。

身体も治ってきたし、少しずつ元気になってきた気がする。なんか明るい文章になってきた。明るいよね、これ。

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