月別アーカイブ / 2017年01月

たまに「映画を観た方がいい」と言われる。
僕が「映画をあまり観ない」と言うからだし、その人は映画を観て良かったことがあるからだ。


あとは『他のエンタメも音楽も本質は近いのだから、表層が違う本質の近しいものに触れるといいわよ』ということなのだろう。

それでも僕は映画を観ない。

もちろん、まったく観ないわけではない。
スティーブ・ジョブズと、剣心の三部作は観た。でもそれらは「タレントの別の表現を浴びたい」という動機であって、「映画を観た」ということではない気がする。


かと言って音楽もあまり聴かない。
たくさん聴く詳しい人に比べたら、あまり聴かない方だと思う。

「イヤホンが手放せない」ということはないし、自宅で音楽をかけることもほぼ無い。ライブもそんなにたくさん行くわけでもない。
ヘタすると演劇や舞台を観に行くのと、同じぐらいの数かもしれない。

映画や音楽に比べると、本は読んでいる。
本は人と比べると『たくさん』だと言えるし、作家に縛られて選ぶことも少ないのでエンタメ、メディアとして好きなのだと思う。



この『映画も観ないし音楽も聴かない』話をすると『インプットをサボっている人』『不勉強な人』と思われるときがある。
そして「もっと勉強したまえ!」というところに着地する(もちろんそうじゃないときもあるが)。

たしかにごもっともなのだけど「ようし、あんまり好きじゃないけど、勉強のためだ!」と思って、映画やら音楽やらに触れるのはキツイ。


では、他のエンタメを『好き』になれる人は、それだけ表現者として才能があるのだろうか。
反対に『好き』になれない僕は才能が乏しいのだろうか。


しかし数だけじゃないよなぁ、とも思うのだ。
100枚のアルバムを聴くよりも1枚のアルバムを100回聴くことで視えることがある。


僕は映画を観ないかもしれないけど、ビートルズが残した210曲を何度も聴いた。イヤホンの左右を変えて聴いたりもしていた。

あ、余談だけど、これ、けっこうオススメだ。


左耳で聴いたものは右脳で処理されて、右耳で聴いたものは左脳で処理されるから、聴こえ方がまるで違う。

右耳から頼みごとをされると承諾率が上がるとも言われている。

泣かせたいとき、笑わせたいとき、ドキドキさせたいときなんかは左耳へ気持ちを伝えるといいわけだ。


音楽もイヤホンの左右を変えるだけで、曲の別の側面を感じられる。
でも、こんな聴き方をしているやつはまわりにひとりもいなかった。理解されないことが多かった。でも同じものを繰り返し聴くことで知ったひとつの側面だった。

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そもそも、なにかいろんなものを観たり聴いたりすることよりも、僕はたぶん自分で書いたり作ったりする方が好きなのだ。
自分で作るのは手間はかかっても、フィットするものが出来上がる。

自分で作るには材料がいる。
それか足りなくなれば勝手に補充したくなる。空腹に似た感覚で、「インプットしたい」という欲求が湧き上がる。


世の中には『インプットの量=勉強している』という図式がある。けっこう言われてきた。

そもそもその図式は「何かをインプットする→インスパイアされる→作品を作る」というフローで、ものを作っているという前提で話が進んでいる。

僕の場合、まず前提にアウトプットがあるから、根本から話が違うところがあるのだ。


「何か作る」がまず最初に来ている。
「何かを作る」ために「何かを知る」のではなくて、知っていようが知るまいが無関係に作っていく。

そして、作るのに足りなくなったら補充するというフローだ。
ちなみに、持っている材料を全部使うとグチャグチャになる。『やり方に溺れる』と呼んでいる。だから、材料が多い必要もないと思っている。



観たり聴いたり知ることは大切なのだけど、そこに感動が伴わないと吸収率が悪くなる。
具体的な表面をさらって、抽象的な本質に触れられなければ何にもならない。


先日、ハンバートハンバートを初めて観に行った。「自分もこういうことがやりたいなぁ」と思うぐらい良かった。素晴らしかった。

「こういうこと」というのはもちろん、手法でもやり方でもなくて「なんで良かったか」の「なんで」の部分だ。それを突き動かしたトリガーだ。

あしたのジョーや人間失格、白夜行、燃えよ剣を読んだときも、燃えよ剣を読んだときも、Apple社を知ったときも、メタリカやラーメンズや東京03を観たときも、僕は「こういうのがやりたいなぁ」と思った。

ハンバートハンバートはあしたのジョーと一緒だった。

『音楽』とか『映画』とか『本』とか具体的なレンジから離れて、ものを見つめると、いろいろ視える。そしてそれは感動しないとなかなか視れない。

1.Shining Sherry
2.遠くの街に(新曲)
3.サンキューティーチャー
4.誰もいない街(新曲)
5.I hate
6.All About
7.大阪梅田
8.映画と週末
9.駆け落ちと花嫁
10.結納の日
11.膝を割らないうちに
12.いつも言えない(新曲)
13.風の歌


聴きに来てくれてありがとう。

「終わった」という気持ちがいっぱいだった。さびしかったけど、満たされた感覚もあった。

演った側としても、感想なんて無数にある。
ひとつなんてことは無いし、割り切れるようなものじゃない。
それに言葉にしたところで、気持ちと誤差の大きいものになってしまいそうだ。

しかしその中におもしろい感想がポンと出てきた。自分のなかで聞いたことのない感覚だった。


「真剣に聴いてくれて嬉しかったなぁ」というものだ。

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来てくれた人が、僕の歌を「真剣に」聴いてくれていた。そう感じた。


「真剣」と書くと、眉をしかめて凝視して聴くとか、力んで集中して聴くとか【強・圧・点・押・狭】みたいなイメージがあるかもしれない。


そういったものではなく、ただ「ちゃんと」聴いてくれたように感じた。


「浴びるように」聴いてくれていたし、「浸かるように」聴いてくれていた。

「委ねるように」聴いてくれている人もいるし、「傾けるように」聴いてくれている人もいた。

それは「受け入れるように」聴いてくれたとも言えるし「入り込むように」聴いてくれたとも言える。


形容詞や直喩を乱発することで、僕の言う「真剣に」がなんとなくでも伝わったら嬉しい。


でも、それは僕が「真剣に」演ったからかもしれない。

真剣に演ったから真剣に聴いてくれたと考えると、美しくてしかたがない。
それか、僕が真剣に演ったから、お客さんの真剣を感じ取ることができたのかもしれない。この角度からだって美しい。


僕はただ、この日のために用意してきたことを演った。大切に丁寧に、しっかりと。「真剣に」演った。


「会いたい人に会えないことは身が千切れるほどさびしい。
必要なものが自分の中で欠損している状態なのだからしかたない。だけど会えたとき、空になった器に感情が注ぎ込まれると、そのさびしさに耐えてきたことは、決して間違っていなかった」 

終わってみたら、そんな感覚だった。


僕の「真剣に」を抽象化すると、とても曖昧だけど、生々しいものだった。

それは『気合い』や『集中』などのパワフルな単語は似つかわしくなくて、温かい単語たちの方が「真剣」という単語の隣りに並びそうだった。


それにしても、歌を作って練習して歌って、何かを感じてもらうことが心から好きだと思った。続けたいなぁ。「失くなった日にようやく知る」だった。



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活動63ヶ月目のバンドをやっている。


長く在ると腐るのが世の常だ。有機物の宿命だ。


しかし、ありがたいことに僕はいつも鮮度を感じながら音楽を日常に置かせてもらっている。

というよりも、むしろ、結成当初よりも鮮度が上がっている。そう思う。


4人でいるたびに、新しいことを知ることがホント多い。うーん。でもこれは『鮮度』ではなくて、「脂が乗っている」という状態なのだろうか。ピッタリな言葉が見当たらない。



なんていうか、結成当初よりもよくよく練習するようになった。よくよく話すようになった。

しかし、これは量ではない。かといって『質』というのも遠い気がする。 



もしかしたら、それらをまとめると僕たちは「よく考える」ようになったのかもしれない。


弾くこと、歌うこと、作ること、まとめること、鳴らすこと、練り込むこと、届けること。

「考える」という動詞を始点に、それらは進むようになった。


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「考える」って日常生活でけっこう足りなくなる。

油断すると、やらなくなる。

 


僕たちも結成当初はあまり、「考えて」いなかった。


僕たちがやっていたあの行為は「選んで」いるだけで、「考える」ではなかったように思う。


他にも「知ろう」ともしていたし、「聞こう」ともしていた。

「調べる」だってやったし、「集める」も「真似る」もやった。



だけど、それらは「考える」とは、まるで違うものだと思う。



困ったとき、人に聞いたり調べたりするのが悪いということではないけど、それらは「考える」とはずいぶんと距離があるように感じる。




子どもの頃、学校のテストや勉強で「分からない問題」というのがあった。

あの「分からない状態」というものは、よくよく考えると「知らない状態」でしかないんだなぁと思った。
僕たちは小さい頃から、【分からない=知らない】という言葉のトリックの中、教育されてきた。



勉強とは、学ぶとは、「知ること」だった。知識の全量と、その精度を競うものだった。

その総合力が、偏差値という値になり、進路を決めるのに重要なファクターになった。



僕がここに書くまでもないかもしれないが、学校教育は知識を身につけることこそが、物事を理解することなのだと思い込んでしまうようにできている。


「これが分かりますか?」という問いは、「これを知っていますか?」というものでしかないということだ。知識の正確さを問われるだけのものであり、それ以上でもそれ以下でもない。



すべてを学校教育のせいにするほどアウトサイダーでもないが、そこに「考える」が衰える一因はあるんじゃないかなぁ。



ちなみに僕は学校教育を批判したり、糾弾しているわけでもない。

教育の云々を変えたいとかもない。ただ、「考える」ことを考えていたら、そう思っただけだ。


「考える」アビリティが無いと、生きていけないわけでもない。

だけど僕たち4人がクールな音楽を届けるには必要なことだし、その次元でやれている毎日を僕は楽しいと感じている。Googleの検索欄に打ち込めないものが、歌のなかにはいっぱいあるみたいだ。


考えすぎて落ち込んでしまうひとに「考えすぎるな」と言うアドバイスがある。

僕は全然そんなことは思わない。
「考えすぎ」が悪い状況を作り出すときは、ただひとつのことしか考えていないときだ。

いろいろなことに考えを巡らせ、よく考えることは、ひとりぼっちの夜を奮い立たせる火種にさえもなる。


 

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