月別アーカイブ / 2016年10月

「ステージや歌を作るために考えていること」について、僕は毎日書いている。
それを22時キッカリに更新している。


この記事が初見の人もいるかもしれないので、書いておく。
そう、じつは毎日書いているのだ。

良かったら明日もここに来てほしい。
明日もあさっても、しあさっても書く。


そして、書き始めて、今日が101回目の更新になる。


久しぶりに数えてみたら101回目だった。
キリが悪くて申し訳ない。
 

「なんで、昨日じゃないんだ」と声が聞こえてきそうだ。
すまない。もうずいぶん前から更新数に無頓着になってきて、カウントダウンとかしていなかった。

でも前に数えたのが40日ぐらいだったから、凄いと思った。
久しぶりに数えたらほぼ、100日だったわけだ。 

人間の感性の鋭さ、カン、体内時計、時間感覚に敬服した。1日ズレたのは僕程度の精度だからだ。


しかし101日連続でやったことなんて、今まであまり無いなぁと思った。


しかし「続けること」はやっぱりいい。


継続の力を信じていない人は、毎日重ねることの破壊力を侮っている。

派手さは無くても、重なっていくことは強い。というより、重ねている人を強くさせる。


心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。 


習慣は継続と同じ意味だ。
人格をいじくるなら、習慣を変えてしまうのが手っ取り早いらしい。


継続は積み重なるのが楽しい。
ライブ本数だって、ここまで456本やってきた。
この重ねたものは、消えない僕たちの財産だ。 


ブログだって、一緒だ。
たかがブログ、されどブログ。Web上に残すログ(記録)だ。 これは僕の記録だ。


101日前に僕が「毎日書こう」と決めたことが、今日まで繋がった。

嬉しいけど、欲が出てくる。もっと前からやっておきば良かったと思ってしまう。

結成当初5年前からやっていたら、1825記事書いていたことになる。


過去には戻れないけど「やってりゃよかった」と思ってしまう。

思うほど、後悔と欲が強くなる。

そんなときは、少し面白い角度から考えてみたい。
ダルビッシュ流にアレンジを加えたものだ。



僕は今、「書いた末の10月31日」にいるわけだけど、「書いてこなかった末の10月31日」も存在していたとする。


書き始めた7月23日から、じつはいろんなコースがあって、それぞれの未来がパラレルワールドで存在しているとする。

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「書いてこなかった末の10月31日の僕」を思い浮かべてみる。
 
「書いてこなかった末の10月31日の僕」は今日もダラダラ過ごしていたとする。

やることもなく、二日酔いのダメージが抜けず、延々と布団の上にいるだろう。

午後を何時間も過ぎた頃に、ようやく起きだすことになるだろう


10月31日は燃えるゴミの日だ。
きっと天地がひっくり返っても、10月31日の火曜日は燃えるゴミの日だろう。

少なくともブログを書いていようが、書いていまいが、関係なく、10月31日は燃えるゴミの日だ。


外に出て、バカでかいゴミ収集ボックスをこじ開けて、ゴミ袋を放り込むだろう。

「この気だるさも一緒に回収してくれないだろうか」などと、考えると思う。


ふと、脇に目をやると、テレビがあるとする。

しかし、そのテレビはよく見ると、やけに綺麗だったとする。
僕は気に入って、それを持って帰ることにしたとする。



クッキリした画面には《パラレルワールドのぞきテレビ》と表示されてたとする。

それは、22世紀製のひみつ道具だったとする。

そして「書いていなかった僕」は、「書いた末の10月31日の僕」の実情を知ってしまったとする。



たぶん、ものすごく後悔すると思う。
皮膚を掻き破りたいほど後悔して、「書いときゃ良かった」と心底悔しがるだろう。


皆さんがご存知の、こっちのコースの「書いた僕」からすれば、「書いてこなかった末の10月31日の僕」の惨状など、知るすべは無い。

なぜなら「こっちのコース」には《パラレルワールドのぞきテレビ》が無いのだ。しかたない。


だけど、「書いてこなかったコース」は、きっとロクなものじゃない気がする。 

習慣を変えなかった僕のコースは、どうせひどい。 

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書いていない方の10月31日は、あらゆるものがうまくいっていないと思う。

負の連鎖が延々と、続いているとしか思えない。

マインドやモチベーション、ミッションの向きはぐちゃぐちゃだろう。


スピリッツひとつで、情勢はずいぶんと変わる。


少なくとも書くことで、僕は自分を見つめられた。

今までには無い角度、『正対』という角度から自分と向き合った。


もしも「書く」が無ければ、スピリッツは足りていただろうか。スピリッツは、チームに行き渡っていただろうか。



不足したスピリッツで、muevoの連載はあっただろうか。LINEの配信はあっただろうか。

『凛として平気』という歌はあっただろうか。

『本気で演りたい』という言葉は出てきただろうか。

まだ発表されていない諸々はあっただろうか。


もっと言えば、メジャーデビューさえもあっただろうか。


「書いてこなかった10月31日の僕」には、それらがすべて無かったとする。
ていうか十中八九無い。


そう考えると、《パラレルワールドのぞきテレビ》で、こっちのコースを知った「書いてこなかった10月31日の僕」の後悔は、想像に難しくない。 


そして「書いてこなかった10月31日の僕」は、100億%準アル中のままだろうから、後悔の末に飲みに行くことだろう。

ちょっと嫌なことがあったら、すぐにアルコールで無かったことにするに決まっているからだ。

コンビニで安酒を買って、何キロも徘徊するゴールデンコースを選ぶだろう。

延々と歩きながら、ヤケになったまま何時間も飲む。いつもどおり、いつの間にか夜になる。

それでも、コンビニからコンビニへと、渡り鳥のように歩く。

そのたびに、酒を買い足して、ひたすら飲み続ける。


気が付くと、見覚えの無い住宅街にいる。足が限界になって、太ももから足の裏までが痛くなる。

ヒザに手のひらをつけて中腰になり、立ち止まることになる。

ふと右目に明るいものが飛び込んでくる。

ゴミ捨て場の方だ。またゴミ捨て場か。何か光るものがある。


その正体は、銀色のパネルに液晶が鈍く光る、不思議な機械だった。

液晶のまわりには、オレンジ色の染色がなされ、縦にブルーの三本線。

ずいぶんとレトロだが、やけに魅力的に見えたその液晶には《人生やり直し機(101日だけバージョン)》と表示されていた。


その下には「使いますか?」と「YES or No」とある。

迷うことなくYESを選んだ。としよう。



もしもの話にもほどがあるが、だとしよう。

それを使って、101日だけタイムリープさせてもらったとする。

それが今日の僕だったとする。

7月23日からやり直してきて、ようやく10月31日まで戻ってきたとする。

そう考えると、とてもありがたく、感謝したくなる。
たぶん未来デパートの廉価版で、101日バージョンだったのだ。

5年は無理だったけど、まぁでもラッキーだ。101日だけでもありがたい。

充分だと思える。

「5年前からやっときゃよかった」なんて贅沢も引っ込む。


あの「書いてこなかったコースの10月31日」の最悪っぷりを思えば、今は最高の環境だ。


101日で、充分に態勢を整えることができた。態勢さえ整えば、情勢だってきっと変えられる。


考え方次第だけど、自分を面白くして、盛り上げられるなら、「もしも」や妄想を使っていいかもしれない。

藤子不二雄先生を敬愛しているので、こんなことばかり考えている。

でも、やり直すために戻って来たって考えると、時間や瞬間に希少価値が増すのは事実だ。


自分が楽しんで、腑に落ちて、何かが積み重なっていけばいい。
いい習慣の中を泳ぐのは、誰しもがきっと楽しいことだ。


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「思い通りの人生」と「冴えない現状」にどれぐらい差が開いているかなぁと、しんみり考えるときがある。


そういう類いの考え事は、バタバタしているときには考えられないようにできているらしい。
少し余裕ができて、頭にスペースができたら、スルッと滑るように入ってくる。

バタバタしているときはそれどころではないし、いっぱいいっぱいだから「考える」が発生したときって、少し落ち着いたときなのかもしれない。


たしかに、ちょっと余裕が生まれている。

気持ちの面や、やらなきゃいけないこと、どうしようもないことが、少し片付きつつある。

半分も片付いていないし、一生片付かないんじゃないかということもあるけど、まぁいっぱいいっぱいではない。

特典作りや新しい文章を書く仕事など、具体的にたまっていたものも、たくさんあったのだけど、まわりのおかげで、みるみるうちに納期を巻いて仕上がりつつある。

すると、スペースが生まれた。

そこに入り込む「考え事」が、どうやって決まるのかは、僕が知るよしもないが、今回は「思い通りの人生」と「冴えない現状」の差についてだった。

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もちろん、今がそんなに冴えないわけでもない。その前提は押さえている。

むしろ環境には恵まれている。
充分すぎるほどだ。


では環境はいいとして、自分はどうだろうか。
自分単一で考えると、完ぺきとはほど遠いように感じる。

思い通りのものが、デザインされている毎日だと言えるだろうか。

大きいことでも、小さいことでもそうだ。

「思い通りに弾けているだろうか」
「思い通りに歌えているだろうか」
「思い通りに書けているだろうか」
「思い通りに笑えているだろうか」
「思い通りに伸びているだろうか」
「思い通りに目指せているだろうか」


だけじゃなくて、この記事を読んでくれているあなたもそうだと思う。

「今が最高に素晴らしくて、何の改善もなく、ただ現状を維持できればいい!このままでいい!このまんまキープして、一生行きたい!」

という人は少ないのではないだろうか。

僕は自問して、返ってくる自答はいつも「最悪でもないけど、俺の最高はまだ先にある」だった。

「理想」と「現実」をどれぐらい接近させられているかに、僕たちのテンションは左右されていると思う。


「充実している」
「寝食を忘れる」
「打ち込んでいる」

いろんな表現があるけど、つまるところ僕たちは「思い通り」と「現状」の距離を縮めるために生きている。
縮めようとしなければ、いつまで経っても思い通りにならない。縮んだら嬉しいし、楽しい。



この「距離を縮める」が無いと、どうしても寒々しい毎日を送るようになる。

僕の人生は、そんな時期の方が多かった。

ライフスタイルは不思議なもので、一個狂うとすべて狂う。

寝ていないと、食べていないと、好きなものに真剣に打ち込んでいないと、理想をしっかり見ていないと、いけないらしい。

どれか一個狂うと、なぜかすべてがおかしくなる。

だから、空いたスペースに「理想の人生」と「冴えない現状」にどれぐらい差が開いているかという自問が滑り込んできたことは、とてもいいことだと思っている。

空いたスペースに発生したのは、安堵感でも満足感でも無く、ただの飢えだった。

未来に対して、じつは現状の僕は静かに飢えていたらしい。それに生々しく気が付けた。 

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戻りたいほど花々しく思える過去はないのに、今がそんなに素晴らしいわけでもない。

でも、それでも僕たちは未来にだけは、理想を見ている。

いつか絶対に、すべて失くなって消えるのに、それでも理想を目指している。
手に入っても入らなくても、いつか終わるのに、なんとかして「思い通り」を、手に入れようとしている。

終わること、いつか死ぬことはもう決定事項で変わらないのに、プロセスだけは変えようとしている。
どんな風に過ごしても、「絶対に終わりは来る」のにだ。

「人生は死ぬまでのひまつぶし」というみうらじゅんの名言がある。

じゃあ「絶対いつか終わる」という果てしない虚無を、どうやって埋めていくかだけだ。 

「死ぬまでどんな風に過ごそうかなぁ」というぐらいのものなのかもしれない。

死ぬまで気に入らない服を着ているよりも、気に入った服を着ていたいなぁと思う。
気に入った服を探しに行きたいなぁと思う。

その服を手に入れるには、走って飛ばないといけなかったり、壊さないといけない壁があったり、現状のままじゃ辿り着けなかったりするらしい。

それでも、気に入った服を着てから死にたい。
僕はどうやら、そうしないと、気が済まないらしい。 シンプルな話だ。
気に入らない暇つぶしをしたくない。


書いているうちに、友達が書いた歌の話になっちゃったなぁ。
オマケにそれに、自分の解釈を入れた話になっちゃったなぁ。


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本日は龍谷大学の学園祭に出演。
したがって、この記事は教室で書いている。控え室として使わせてもらっている。

珍しく、今日はその日のことを書こうかと思う。日記スタイルだ。



ライブ前にインタビューがあった。
なんと僕たちの言葉が、卒業アルバムに掲載されるというのだ。
 
学生さんによる取材だったのだが、とても楽しかった。
そして楽しいだけでなく、スーパー有意義だった。なんていうか、とてもいい取材だった。

記者は学生さんなので、もちろんプロのインタビュアーではない。
だけど、プロのインタビュアーかどうかなんて、関係無いと思った。 
良いものは良い。本当にいい取材だった。


しかし、なんで良かったのだろうか。

気持ちがあったからだろうか。
気持ちの話になってしまうのか。
できれば、気持ちの話にはしたくないなぁ。 
本当に良かった分、「気持ちストーリー」に逃げたくないなぁ。


基本的に、僕は精神論をゴリ押ししたくないと思っている。
歌詞や文章を書いているのだから、言葉を頼りたい。言葉の力を信じたい。
それに、精神論には説得力が無い。

今まで出会った精神論を説く人は、思いやりが無い人が多かった。それを僕は精神論の悪用と呼んでいた。

彼らは他者に精神論を押し込みまくって、精神論を受け入れない人を軽蔑していた。 

「何かしら人に伝える」のだから、言葉はいるし、言い方も選ぶ必要がある。
 
精神論に依存しまくると、そこらへんがボヤけてしまう。

伝えたいことを伝えるときは「伝わらないかもしれない」という謙虚さがいる。
それが、誰かと分かり合うための一歩目になると思う。

「お前のために言ったってんねんぞ」とは次元の違う、思いやりがいる。


それでも、それでもだ。
「彼らの取材が素晴らしかったのは、気持ちが入っていたからだ」と思ってしまう。それぐらい良い時間だった。

やはりスピリッツが、技術やキャリアを凌駕するときはある。

どんなプロフェッショナルでも気持ちが入っていなければ、「気持ちが入っているもの」には勝てない。 


「スピリッツが技術やキャリアを凌駕するとき」 

どんなときだろうか。
いろんなファクターがあるけど、ひとつは何かに集中したときだ。 


何かに集中したときの、人間のパワーは計り知れない。
そのパワーは小手先のテクニックでは、到底かなわないものだ。


そして学園祭には「集中したとき」が詰まっている。考えてみれば当然だ。

「その日のために頑張ってきた人」がゴロゴロいるからだ。
少しだけ、学内をフラフラしてみた。

軽音楽部のライブステージもチラッと観たが、これも素晴らしかった。
 
僕たちと違って、その日のために組まれたバンドばかりだ。

学園祭のために組んで、学園祭の日に失くなる、いわば閃光のようなバンド。
 

みんな、今日のために、たくさんの準備をしてきて、今日のために本気の音を鳴らしていた。

コピーバンドか、自分で作った歌かなんて関係無い。

「その日のために頑張ってきた人」の音楽は、真に迫るものがある。


学内のみんなが、本気で準備をしてきて、ようやく10月27日にたどり着いた顔をしていた。

学園祭にはそんな「魂に触れる瞬間、火花が舞う瞬間」みたいなものが溢れている。

瞬間ゆえに出せるパワーがある。
「その日のために」というレールに導かれたものには、迷いがない。

思いきり集中している。 

エネルギーが充満していた。
それを滝のように浴びた。


だから、僕は学園祭が大好きだ。
いろんな学祭に出たが、毎回心が動く。

今日の龍谷大学の学園祭も素晴らしかった。


僕たちは、学生ではない。
音楽を生業にしている集団だ。

学生に勝る魅力を常に引き出していること、最高のクオリティ、すべてを凌駕していること、死ぬぐらい「良いこと」を、期待されている。

その期待はオーディエンスだけにじゃない。何よりも、自分が自分に期待している。

僕たちは、その日うんぬんじゃなく、人生の中心が音楽になっている。

いわば音楽に集中している人生だ。

それならば、それだけの質を出せていないと、アホらしい。何のためにやっているのか分からなくなる。


ステージに上がる前、いろいろ見たり、話したりしたことで、気合いを入れてもらった気分だった。

やってやると思った。
負けていられないなぁと思った。
「火花散る瞬間を魅せていく音楽家でいたいなぁ」と思った。

なんだか学園祭という空間に感動してしまった。

ビバ龍谷!


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