月別アーカイブ / 2016年07月

足元に置いていてギターの音を変える機械が壊れたので、
純くんと同じやつを菅さんに買ってきてもらいました(お金は払いました)
4種類の音を操ってましたが8月から5種類になります。


これについて補足してみる。

ツイートを補足するブログを書き出してから、色んな方に「これを補足して!と言ってもらえる。
ありがたいことだ。それではスタート。





僕はステージでギターを弾きながら歌っている。 
みんな気にしているか気にしていないかは分からないけど、ギターの音色ってけっこうコロコロ変わる。

ジャーンだったりチャリーンだったりギャーンだったり、シャワワワだったり。

この音色は心意気とかで変わってるんじゃない。
心意気とかで変わっていると思った人がいたら目を覚まして欲しい。


実は最初から音色を設定していて、曲を表現する際にコロコロ変えているんだ。


たとえばAメロが大人しいメロディだったら、澄んだ綺麗な音色で弾きたい。
でも、サビで盛り上がっているなら高揚感のあるギャンギャンした音色で弾きたい。
それらを叶えるアイテムがある。

  Cn3Wrg3UMAAm2to

スイッチャーと呼ばれる専門機材だ。このボタンを押すと色々と音が変わるわけ。
でも演奏中僕らは手が塞がってるから、行儀悪く、踏んでスイッチを切り替える。


練習中、この僕のスイッチャーが馬鹿になった。思った通りの音が出なくなった。
「よしサビで思い切りギャンギャンさせるぞ!」と思って
ギャンギャンのボタンを踏んだらチャリーンと鳴った。悲しい音色だった。
ていうか聴こえなかった。暴動中に仏壇のチーンのやつが鳴ったみたいになった。

オマケに電源アダプターが断線した。
ファミコンやプレステと同じだ。
電源アダプターが無いと電気が供給できない。
どんなに素晴らしい機材もただの模型と化す。


もはや使い物にならない。買い替えることにした。
下記のものだ。まだ本番では使っていない。


Cn7YuyvVMAE6YE6



CAJ(Custom Audio Japan)というブランドだ。
僕はギターに繋がっている線も全部このブランドを使っている。
この線も色んな国の色んなメーカーがある。

この線は専門用語で「シールド」と呼ばれている。「盾で守る」という意味だ。でも実態は線だ。
正直呼び方は何でもいい。僕は「線」と読んでいる。


さて、スイッチが6つも点いてる。
4つだったあの頃から考えると天文学的な数値だ。 


一番左のスイッチは「音が出ないようにする」 というどう考えても
ステージトラブルのもとになるスイッチだ。押したら最後。音が出なくなる。
これは爆破スイッチみたいなものなので、なるべく触らないようにする。
 

ちなみにパワワワワとかシャワワワとかズゥオオオンみたいな変な音を僕は使わない。
エコーぐらいだ。エコーは使う。みんなもカラオケで使うだろう。

このエコーのカッコいい呼び方は「リバーブ」

さて、これら変なギターの音をまとめて、専門用語で「空間系」と呼ぶ。
空間を司どるという意味だ。

これら空間を司る系の音を総して、Suck a Stew Dryというバンドのハジオキクチ先生が
「目に見える音」という哲学的表現をしていた。

ギターに精通していない人でも気付く音の違いということを端的に表した、
ソクラテスも裸足で逃げ出すエッジの効いた表現だ。


images



この「目に見える音」という表現は僕の中で空前の大ブームを起こした。
人にいちいち「目に見える音どんなん使ってる?」と言っていた。「は?」と言う返事が返ってきた。
三日程経ち、ブームは終わった。
 

先生のせいで少し脱線したがスイッチャーを新調した話だ。

今までの4つだったボタンは6つになった。
爆破スイッチは数えないので、残りのスイッチ5つで音色の切り替えを行う。
つまり、今まで4種類だった僕のギターの音色は5種類になる。

Cn7YuyvVMAE6YE6



僕のギターサウンドは右のボタンから
チャリーン+エコー
少しギャーン
かなりギャーン
猛烈にギャーン
かなりギャーン+エコー


となった。
ここから分かることは、僕のギターサウンドはどれもそこそこ似ているということだ。
大きく分けて、チャリーンギャーンしかない。ギャーンの段階が高いか低いかだけだ。

つまり先生の言葉を借りると僕のギターは「目に見えない音」になるのかもしれない。


先に書いておくと、チャリーンは「クリーンギャーンは「ひずみ」と呼ぶ。
漢字で書くと「歪み」だ。

高校生のときに楽器店で「ゆがみ系のペダルないっすか?」と発して大恥をかいた。
店員さんは不機嫌だった。 
 

そして、この新たなCAJのスイッチャーは純君と同じやつだ。 
どうやらスーパーマリオシリーズのように1とか2とかがあるらしい。続き物だ。

自分で買いに行くと不安なので、菅さんにVISAカードを渡して買ってきてもらった。
人にクレジットカードを貸したりしては絶対にいけない。 

悪用される可能性をこちらから生み出してはいけないのだ。



「ギターを鳴らす」と言ってもその裏側には様々なドラマがある。
その目に見えないドラマが幾層にも重なることで、みんなの目に見えるドラマがステージで発火する。

百聞は一見に如かずだった
実際に泣いて笑って触らないと身にならない
でも同じ体験をしても最高に感受する人もいれば経験後、何も変わらない人もいる
その差は一見に巡り合うまでの百聞の中にあったりした。
読んだり聴いたりだけの疑似体験が、いざマジ体験が来た時に何倍も味を引き立ててくれた



『聞いたり読んだりしただけじゃ意味ないよ。実際に経験しなきゃ身にならないよ』


よく言われることだ。

「勉強よりも実践が一番ためになる」
「経験こそが最高の学びの場だ」
「机上の空論でものを言うな」
「頭でっかちになるな」

そんな言葉にも言い換えられる。


本当にそうかなぁと思ったことがあったので、書いてみる。

僕は二十歳を越えたあたりからずいぶん本を読むようになった。
音楽もよく聴くようになった。映画はあんまり観ない。

その中でも電子書籍には一番触れていると思う。
コミックを合わせたら年間に400冊とか読んでるかもしれない。

これに加えてWebコラムやキュレーターサイト、Webマンガも合わせると、
凄い数の情報が頭の中に入ってきている。


でもこれらの情報をすべて実践し、毎日に生かしているかと言われると、全然違う。
たまに表面化するものもあるけど、それは本当に一部でしかない。



つまり、実践より勉強(勉強とは思ってないが)の方が量として完全に上回っている状態だ。

じゃあ表面化していない知識はムダだったのだろうか。
しょせん「机上の空論」だったのだろうか。それらは僕に不要なものだったのだろうか。

いやいや、そんなことはなかった。
 
 
これはいろんなことを備えておくと、いざ「机上の空論」が現実に訪れた時に、
備えていないよりも楽しめるよって話。
ピンチの時には、より戦術も選べるよーって話。

lgf01a201411041900


たとえば先々月、屋久島に行った。
ほぼ全域が山地になっている鹿児島県の島だ。

今まで行ったことが無かった。

結論から言うと鬼のように心を打たれた。 受信しまくった。

ものの見方が変わるような体験もした。
本当に行って良かった。

ただ、屋久島に行ったすべての人が同じ感想を持つわけじゃない。
「つまんね」「ただのいなかじゃん」という人もいるだろうし
「うん、よかったわよん」と、ほどほどに楽しむ人もいる。


どちらが良い悪いではないのだが、何でこの差が生まれるのかと思った。


きっとそれまで何を吸収してきたかが、大きいんじゃないかと思う。

その人その人の吸収してきたもので、実際の経験に対しての光の当て方が変わってくる。
光の当て方を知らないまま実際の経験を目にしても、よく見えなかったりする。


死生観や哲学に関する詩や書籍の言葉を思い出しながら、長い時間を通過した自然に触れた。
都市部以外の暮らしを学んだ時のことを振り返りながら、島の人と話した。


どうやって僕が屋久島に行くことを調べたのか、
行く直前にフクモトエミ(友人)が屋久島ガイドブックをくれた。

行く前に読んでいて良かった。
到着した時の美しさはガイドブックの数百倍だった。読まなかったらあの心に数式が出現する感覚は無かった。


冒頭の『聞いたり読んだりしただけじゃ意味ないよ。実際に経験しなきゃ身にならないよ』は
間違っているわけじゃない。

ただ、当たり前になってきている「経験こそマジ最強!」という考え方に対して、
フラットに自分をぶつけたら少し違う答えが出た。それをこことかTwitterに書いた。
書かないと出ない答えだった。


出た答えを公式化したものが下記だ。

『聞いたり読んだりしただけじゃ意味ないよ。実際に経験しなきゃ身にならないよ』という文章は

聞いたり読んだり≠意味
実際の経験=意味 


ということだ。
でも、僕はこれがしっくりこなかった。 

下記のかけ算的な公式が一番しっくりきた。

聞いたり読んだり×実際の経験=意味


この「意味」は人によって違うので、人によって違うものが当てはまる。
成長だったり、成果だったり、喜びだったりかな。

過去を振り返ったとき、知識を備えてないと、
「実際の経験」の効果が半減していることが多かったなぁと感じる。


もちろん、先人からの学びゼロでも行けるし、やれる。経験のみで学ぶこともできる。
「百聞は一見にしかず」というぐらい実際の経験は最高の教材なのも知っている。


でも思い返すと「実際の経験から学ぶ」ってそんなに甘くなかったなぁと感じる。


「経験くん」はいつも凄い速度で目の前に現れて、僕の前をあっというまに通過していった。
しかも「経験くん」はどちらかと言うと親切な方じゃない。その実態は中々に見えづらかった。

そんな時に、良い角度での光の当て方を知っていると、
見えづらい実態が見えやすかったりするよっていう話。


『聞いたり読んだりしただけじゃ意味ないよ。実際に経験しなきゃ身にならないよ』じゃなくて

『経験だけを重ねても意味が少ないし、知識ばっかり蓄えてても意味が少ないよ』

ってとこに着陸したらしっくりきた。

曲を作るので作ることには敏感になった。その中で「再利用」ってわりと好き。

新しい何かが生まれる時って全てのパーツが新しいわけじゃない。ギターが最初発明された時、
木を使おうと思ったわけだし、カバンの誕生には皮が関わっている。

そのまま使うと芸が無い。工夫がいるとこがわりと好き。


新しいものが生まれたり、何か凄い発明が起きるときでも、 それらを構成する全てのパーツが新しいわけじゃないよ、という話。


ヴァイオリンの弓の一部にはクジラのヒゲが使われてると僕に教えてくれたのは『ドラえもん』だった。 衝撃だった。

最初に「再利用」にハッとさせられたのはあのドラがきっかけだったんじゃないかなぁ。 そんなことを思った。

野球の硬式球も牛革が使われていたり、バットはアオダモの木などで出来ている。

ホント世の中の全てのものは元々あったものを再利用して、新しく生まれてきたと言ってもいい。
 
c87b4249.jpg



これが人間にも言えたりして。

ゴールデンボンバーの鬼龍院さんは元々、芸人を目指していたけどミュージシャンになった。 

東京03の角田さんは逆のケースだ。

そして僕の敬愛する小林賢太郎さんはもはや、あらゆる職業の枠を完全に超越してしまっている。

GLAYのTERUさんはドラムだったし、浜崎あゆみさんは歌手じゃなく、女優デビューだった。

ジャイアント馬場さんは巨人軍の投手だったし、島袋光年先生と大場つぐみ先生は ギャグ漫画家からストーリー漫画家に飛躍した。


もっと身近にしてみよう。
マクドナルドの肉を焼くバイトだった僕はQOOLANDを作ったし、 一緒にやっているバンドメンバーも元々バンド違うバンドをやっていた。

みんな新天地で今までの自分を「再利用」したと言える。


「再利用」って言葉がイメージわるく感じるかもしれないんだけど、それでも僕はけっこう好きだ。 

心地良かったりまでする。なんでかなーと考えてみた。

たぶん「もともと別の意味合いを持っていた何かが、別の世界で活躍する」ということに心震えるのだ。

しかもそれは今までの世界での経験値が無かったら、きっと不可能だっただろうから。

人生の伏線がしっかり回収されていると言ってもいい。

巡ってきたことの背景、長かった時間、苦しかったことが回収されていくさまは美しいなぁと感じる。

「深み」と言い換えられるかもしれない。


そして僕の作る音楽もすべてがそうなっている。



色んな音楽を聴いてきて、色んなものを読んで、色んな人を知って、泣いて笑って、 死にかけたりして、その経験を「再利用」してこの世に新しく誕生する。


僕の生きてきた経験は細かく砕かれて、練りまくられ、何重にも濾して、3〜5分程度の音楽になる。

そして、他の人には作れない唯一のものになっている。


ちなみに今も新しい歌を作っている。
つらかったことも歌ってるんだけど、もしそこで回収されたなら、 あのつらかった日の僕も報われるんじゃないかなと思った。


逆に考えると、今日最悪なことが起きたとしても、
半年後の自分が回収してくれることがあるかもしれない。

未来の再利用を思えば、つらくても「生きるしかないか」と言えたりもする。

僕が好きな再利用には、そんな希望や救いがつまっている。

↑このページのトップへ