月別アーカイブ / 2016年05月

ROCK IN JAPAN FES.2016に出演決定! 

改めて生き様や音楽を見せて、勇気やスピリッツを与えられると信念持って活動している。

QOOLANDの歌ってる内容やサウンド、リリースの仕方は他のバンドや、世間の常識、ルールから外れたことも、たくさんある。

でもそれら全部に意味があって、みんなにとっても価値あるものだと信じている。


去年は音楽事務所に所属しつつもロッキンジャパンには出れなかった。 

そして僕たちはその後に会社を辞めた。

その後、無所属になっても挑戦し続けた僕達をファンの方々や、ロッキング・オンの編集長は見てくれていた。

本当に道無き道を耕すのは大変だし、その土の固さもキツイ。でも、だからこそ、意義があるとも信じている。 


会社を辞めて、クラウドファンディングから走ってきて、その他諸々、メンバーもスタッフも全員大変な事が多かった。
それを僕は見ていた。

僕自身が一番QOOLANDに勇気を貰った。

今後も僕の才能、能力、気力、全てを使って仕掛けていきたい。

大手事務所所属でフェスに出まくっているバンドには無い質感のステージを、一発ズガンといきたい。

来られる方々はお楽しみに。
 

人が「大切なものを失う」という感覚を最初に知るのはいつだろうか。
幼児の頃、それとももう少し成長した頃だろうか。いつだったか思い出す事ができる者は稀だと思う。

海馬を掘り返すように記憶を探ってみると、僕には鮮明に覚えている一日がある。小学一年生の頃だ。飼っていたジャンガリアンハムスターが死んだ。老衰だった。
 

僕の住んでいた町は両親の実家と離れていた。

複合家族ではない家に育った僕にとって、「死」というものはまったく身近ではなかった。仏壇や墓参りが生活からかけ離れた子供は「人が死ぬ」という経験を味わう事ができない。

反対に、昭和の時代は子供が祖父や祖母と暮らす家庭が多かったため、子供達にとって死が身近にあったという話を聞いた事がある。
そうなると、やはり僕の育った環境は典型的な平成時代の核家族だった。

そんな僕にとって最初の命の消失を教えてくれたのは祖父や祖母ではなく、小さなペットだった。
 

先日前まで所狭しと走り回っていたハムスターはある朝、全く動かずに横たわっていた。材木のように取り扱い易くなったその体は、昨日まで生命が宿っていたとは信じ難い程だった。
 

ただただ悲しかった。
その独特の神経を握り込まれているような胸の痛みは今も覚えている。そして脈々と波打っていた生命が終了した現実を象徴するかのような、横たわる小動物はひたすらに痛ましかった。


僕は幼い頃から大人に従順な子供ではなかった。もっと言えば大人に対し、侮りに近い感情を抱いていた。常に大人への反骨心を垂れ流していた子供だった。
その考えからかペットを失った悲しみを伝える事はしなかった。この心の痛みは打算や面子で生きる親や教師に理解はできまいと決めつけていた。

 

その次の年だった。
遠く離れた場所で父方の祖父が息を引き取った。癌による病死の数え年は七十七だった。

前述した通り身近とは言えなかった祖父の死はどこかピンと来なかった。会った事も数度であったし、悲しもうにも悲しみようがなかった事を覚えている。


葬儀の日がやってきた。
まだ出来たばかりの明石海峡大橋を渡り、淡路島を越えていく。この半年後に震源地になるとは露知らず神戸の海は穏やかだった。

 

僕にとって人生で経験する初めての葬儀となった。
出席者達の身を包んでいた黒服が印象的だったが、葬式と言えばもっと厳粛なものかと思っていた。

式が始まるまで大人達は祖父の生前の話を肴に、楽しそうに酒を酌み交わしていた。意外にも笑顔が飛び交い、特別消沈もしていない雰囲気は不謹慎にも見えた。

その光景を見て、やはり大人は打算や面子で生きている薄情者だと思った。
ハムスターの命が消失した日の、あの灰暗い虚無感、何回も真っ逆さまに落ちていくような感覚を感じていた、あの感性を持つ自分とは違う生き物だと、また大人を軽蔑した。繊細さは年齢と共に失われるのだと突きつけられたような気がした。

 

暫くして式が始まった。
経が読まれ、木魚の音は大部屋にルーズに鳴り響いていた。
話に聞いた事はあるが当然初めて見る儀式だった。だが特別興味をそそられる事も無く、一刻も早く帰りたい気持ちが大きくなっていた。

永遠にも思えるその時間が練り上げた退屈によそ見ばかりしていた。ふすまに差し込む西日の中を塵やホコリが舞っていた。それをただただ、ボンヤリと眺めていた時だった。

ふと横を見ると
父親が泣いていた。

釣られたか否かは分からないが、気付けば他の大人達も泣いていた。


大勢の大人が集まり泣いているという光景は衝撃、というよりも異様だった。あの人の痛みが分からない大人達が首を揃えて、噛み締めるような嗚咽を上げているさまは独特の迫力があった。
父の涙を初めて見たせいか、その空間の持つ色にあてられたかせいか分からないが、肺が片方無くなったような息苦しさだった。そして、そんな僕を置いてけぼりにするかのように式は進行した。

祖父を極楽浄土に誘う経は後半を迎えつつあった。
ふすまから差し込んだ光線は、先ほどよりも少し赤みを帯びていた。傾いた陽が綺麗だった。
空がその日の全てを悼むように燃えていた。

帰りの車の中、答えが出ない、出す必要も無い問題を解くように考えていた。

「大人はそう易々と悲しみを顔に出せないのかな」

 

冷徹、諦観主義、無感情、守銭奴。そんなイメージばかりだった。

しかし大人には大人の事情があって、泣きたくてもそう簡単に泣く事が出来ないのかもしれない。そう思うと大人が何となく仲間になったような気がした。

訪れる悲しみに彼らも納得をしているわけではない。だが後ろばかりを見ているわけにもいかない。僕は自分という小さな存在が、その営みの中で生かされている事を感覚的に知った。


それから十年後、僕は両親と暮らす事と住んでいた町を失う事になる。

様々な事情で実家に住めなくなり、大阪で一人で暮らさなくてはいけなくなった。
この急遽訪れた両親や地元との離別は改めて「失くす」という出来事の無情さを思い知った。だが人間泣いているばかりでは生きてはいけない。

今僕が兼ね備えているもの全てに永遠は無い。
歌を作る事を延々と続けてきているが、いつ何時この能力を永遠に失うかは誰にも分からない。
そして、信じていたものが側から離れていく事は今までも無数にあった。その度に心の強度が増せば良いのだが、そんな事はまるで無く、つらい事件に幾度となく僕は砕かれてきた。

人間として生まれてから、もうしばらくやっている。
段々と一人の人間に掴めるものが幾つも無い事も分かってきてしまった。あれもこれも手に入れる事は出来ない。

そして無情にもたった一つの事ですら、抱きしめていくには生半可じゃない努力がいる。それでも力及ばず運及ばず、手から滑り落ちる事がある。

しかし「いつか消えるから信じるのをやめる」「いつか失くすから護るのをやめる」という理屈に感情が導かれた事は一度もない。

人は必ず失ってしまう。あの日の
大人達はその摂理を知っていた。それなのに、日々懸命に失くならないように足を前に運び、手は何かを掴もうとしていた。


僕も大人になった。 
あの日泣きたくても簡単に泣かずに生きていた大人達になれただろうか。少しでも近づきたくて歌を作った。
 

 http://qooland-lyric.jugem.jp/?eid=14

ツアーが終わり、しばらく経ったので、昨日の渋谷公演からようやく動きだした。


CTRツアーでとても多くのことを学んだ。生き方を変えようと思った。

ここで全てを活字にする言葉できないけど「簡単に見えることこそ本当に難しい」 「当たり前にあるものこそ当たり前ではない」といった題目が自分の中に残り続けたツアーになった。


「すべてに感謝」「今しか無い」という言葉を口先だけじゃなく、体感した。その渦の中で身と心を焼かれた。なおかつそれを乗り越えた。

そんな経験は誰もができないと思う。

なんだかんだ言って、そんなにおもいきり本質的な部分に触れて生きている人は少ない。


改めて来てくれた人、手を貸してくれた人、ありがとう。


また今週からComin'KOBEを含む、公演が幾つか続く。

このツアーで培えたものを披露できるのを楽しみにしている。

今回のComin'KOBEは実行委員長である松原さんの病気や、熊本での震災へのアプローチなど特別な要因が多すぎることもあって、僕にとっても強い意味を持つ一日になると思っている。


今回の熊本の震災は、生まれてから三度目の震災だった。

初めて自分自身が被災しなかった大きな地震だった。

初めて当事者にならなかった側として、チャリティーフェスに参加出来るので、微力ながら全力を尽くしたいと思う。

そして、その舞台を先導し続けてくれた神戸の大先輩が身体の窮地が訪れてある。

ただまったく、そこで歩みを止める事無く、相変わらず今年もより強烈に走っている。

僕たちもたるんだステージを作るわけにいかないので、前年に増して、気合い入れて望みますので、一つよろしく。

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