月別アーカイブ / 2016年04月

高速道路は目を閉じたまぶたに、様々な種類の明るさを放り込んでくる。疲れているはずなのに心が不安定なせいか、もう二、三時間は眠れないでいる。
それでも気心が知れた人間だけで移動出来る。たまにそのありがたさを噛み締める事がある。



平成二十三年。
普遍的な、社会の幸不幸の数直線上とは違う次元の、ねじれの位置にあるような感覚を抱えながら、僕等四人は平成二十四年へと向かっていた。

都内でバンドを結成して、僕等はすぐに関西や中部地方でのライブ活動を行っていた。地方でも誘いがあればすぐに出演を決定していたし、どこへだって行った。

統計を用意していなくて申し訳ないが、これはおそらく、一般的な都内在住バンドの活動とは異なると思う。
大半のバンドは自分達の住んでいる場所を作り上げてから、地方へと挑戦、進出していく。

僕等が都内と同じ頻度で、地方でライブを行うやり方を採った理由は様々あったが、第一にとにかく、色々な場所で沢山ライブ活動がやりたかった。純粋に渇望していた。
全員が一度東京に敗れた四人だったせいか、呼吸するように、物を食べるように、とにかく音楽を鳴らす必要があった。

しかし、車を持っているはずもない生まれたてのバンドの移動する手段は高速バスしかなかった。

関西までの往復額が一人五千円程度だったと思う。高いか安いかは分からないが、少なくとも僕等の毎日にはしっかり痛恨のダメージを与えていた。
呼吸をするために、一人一人が金と、金以外の全てを切り詰めて活動していた。

最初の活動は五曲の無料ダウンロード、会場限定のCD販売、そしてまた五曲の無料ダウンロードだった。当然だが、移動手段が変わるはずもなかった。

それでも止まる事なく走り続けた。
止まらない音楽活動は求め続けていたものだった。だがそれでも人間、苦しいものは苦しかった。

地方への行きは夜行バスだが、帰りは朝のバスになる。
この行程が身体にも心にも打撃を与えていた。

イベントが終わり、日をまたぐ頃にライブハウスから解放される。僕等は深夜、知らない街に行くあてもなく、四人だけになる。

あの日は夜空が溶け落ちるような雨が凄まじい響きを立てていた。
ホテルやネットカフェに泊まる金もないので、僕等四人は地下通路でそれを凌いでいた。

地面を叩く雨の音がやたらと響く通路だった。
まるで金管楽器の中に閉じ込められたような気分になった。
そしてそこには僕等の他に人間はいなかった。
人間と呼ばれる二足歩行の生き物は、天候に合わせて、相応の場所へ移動するらしい。
十時間後には僕等を護送するバスが駅前にやってくる。それまで時間を潰さなくてはいけない。

何時間か経っても、外ではコンクリートがまだ雨の連打を浴びているようだった。
僕等は打ち付ける音に遠慮するように、小さな声で話しながら、膝を抱えて朝を待っていた。

なんとなく、曖昧だが、あの時は朝だけではなく、何かを待っていた気がする。未来か希望か分からない。陳腐な言葉で表せない、世界で僕等四人にしか分からない奇妙な感覚がある。

焦燥感と充足感、期待感とまぎれもない苦痛、寂しさに似た何かが混ざり合ってドロドロになっていた。
ドリンクバーの飲み物を、全部混ぜ合わせたみたいな色をした感情は、焼け焦げて暗い地下通路に充満していた。
僕等はバンドをしていた。組むだけ、演るだけでは味わえない、一人では絶対に生み出せない感情を核にしながら、猛烈に千切れそうになりながら、バンドをしていた。


気付くと朝が来ていた。
眠れる環境でもないが、意識は朦朧としていた。体育座りのまま、睡眠と覚醒の狭間を引きずり回された脳を無理やり叩き起こして、バス停へと向かう。
腰を上げると足がやたらと冷えていた。持ち上げた重たい楽器と、身体は何かのペナルティみたいだった。

「壊れても責任取りませんよ」

バスを運転するために生まれてきたらしい初老の運転手が、早口に告げる。
まるで人が犬か猫に語りかけるような口調だった。相手からの返事をまるで期待していない声は慣れっこだった。
僕等も彼らと言葉を交わすように作られていない生き物になっていた。
価値観の違う数直線の上に乗っかっている人同士は相互理解が難しい。同じ国の言語を使っているのに、何も通じない事がある。

「いや、壊れへんように作ってるんで」

そう言って、楽器やグッズ類を、バスのトランクに詰め込んだ。添乗員は必要以上に乱雑にドラムケースを、ギターケースを奥に放り込んだ。暗いトランクの中で金属音が鳴り響いた。僕のテレキャスターが泣いていた。

ぎゅうぎゅうと音が聞こえてきそうな狭い座席に身体をねじ込んで目を瞑る。自家用車と違い、高速バスは関西から新宿まで九時間はかかる。
エンジン音と滑走する音だけが、定期的に聞こえる車内で、長い旅路をじっと過ごす。会話を禁じられてもいないのに言葉が出ない。周囲の乗客に扇動された無言を守りながら、新宿へと護送された。

時間の感覚は故障しながら夕刻、新宿の西口に吐き出された。ため息をつきながら、ようやく四人でこぼれ話が出る。
タバコが吸いたいメンバー、眠りたいメンバー、奪われていたそれぞれの欲と自由と時間を一つずつ取り戻していく。
帰還するたびに肩か腰、どこかしらが痛んだ。だが疲れて体操する気にもならない。

高速バスはいつも新宿から出て、新宿へと帰還する。このせいで住んでもないのに、気付くとライブ前に「新宿から来ました」と名乗っていた。これは名残で今も続いている。

そして僕はその新宿から一時間と少し、小田急線に揺られて住んでいた町に向かう。サラリーマンの悩みの中で大きなウェイトを占める帰宅ラッシュを、一緒に味わう。悩みだけはサラリーマンになって神奈川県の木造住宅を目指す。

バスが地獄なら満員電車は地獄以下だ。背中には楽器を持っている人間に対する殺意が、一気に降り注ぐ。
聞こえてくるサラリーマンの舌打ちに心で頭を下げながら、意識を空よりも高く飛ばす。
無意識に涙が込み上げてくる。

到着するも駅から家までは歩いて二十分かかる。
荷物と楽器で叩き割れそうな肩を、地面と平行にして歩く。

その頃には、たちまち暗い夜が重たい幕のように降りてくる。
二十四時間前にライブが始まる前にかかっていた幕を思い出していた。

幕が開いた後の僕等の演奏と、待ってくれていた数少ないファンの人達を思い出しながら、ペースを保って直線の国道沿いを歩いていく。

地球から落っこちそうになりながら、まっすぐ歩く。少しでも足を滑らせたら、地球から黒い空に真っ逆さまに落ちそうで怖い。しかし、ギリギリを歩きながら、確実に歩を進めていく。
いつの間にか家に着いていた。明日は朝からアルバイトがあるので、十時間後に新宿へと逆走する。

思い返しても、僕等はあの頃を呑気に過ごしていなかった。
心が暗くならないように努めながら、しっかりと確実に怯えていた。未来や、目の前のおぞましさに、ちゃんと恐怖しながら、四人で身を寄せ合ってきた。限界値の近隣に生息しながらも死なないでやってきた。

そして何かに期待しながら、その日その時を小さく、静かに燃やしていた。その火は幾度も水をかけられ、何層もの風を吹き付けられてきた。だが、それらを超えながら、守ってきた。今日もその火を守り続けている。


自信を失くすと自分を見失い、一気に途方にくれる。
僕がその感覚に初めて滑り落ちたのは十四歳の頃だった。

 

中学生活も二年目になり、難易度が苛烈する勉強の反動か、教室内で横行するイジメまでが、つられて苛烈していた。
 

僕自身はイジメの被害者でも加害者でもなかったが、学校は面白くなかった。ロクに友達がいなかったので、基本的には学校は眠る場所になっていた。

教室は見たくもないものが氾濫し、罪状が無くてもその残忍さは捕まえといた方がいいのではないかと思える人間が腐るほどいた。もはや目を閉じている方が楽だった。
 

来る日も来る日も眠っていた。しかし、それを気に留めるクラスメイトもいなかった。誰とも言葉を交わさずに一日が終了する事がザラにあった。

もしも教室の扉が自動ドアなら開かないのではないかと思う程に、僕は教室で認識されていなかった。そんな仲間も敵もいない教室で眠り続け、一人苦しんでいた。

悪だと分かっているイジメに対しては何も出来ず、それどころか人と関わる事もしない毎日は、自分がこの世に存在している必要性を見いだせなかった。

思春期特有と言えばそれまでだが、本人にとって苦しいものは苦しい。十四歳の僕は確実に苦悩し、葛藤していた。

 

そんな中、意外にも僕は野球をやっていた。チームプレイが何よりも大切なスポーツをやるような人格ではないにも関わらず、バットを握っていたのだ。

小さい頃は本当に野球が好きだった。地元神戸には将来、大リーグ史上に残る大記録を打ち立てるイチロー選手がいた。神戸では皆がイチローに憧れては野球を始めた。

 

しかし、中学生の部活動と化した野球はひどくつまらないものだった。好きなものがつまらなくなる時はいつもゆるやかに、自然に老衰していく。決定的な理由があって嫌になるわけではない。細かい事が積み重なり、段々と全てが嫌になるのだ。
 

ダウンスイング信者だった指導者の教員はホームランを打った生徒よりも、自分の提唱するスイングで、サードゴロを打つ生徒を可愛がっていた。その思想がどうという事ではないが、もしも自分がホームランを打った生徒だったら「これはたまらないな」と思っていただろう。

アッパースイングで凡退でもしたら、怒り狂いバットを投げつける監督は、バットの扱い方よりも自分自身の心の扱い方に問題があった。

また、僕の中学は近隣にある二つの小学校の生徒が、自動的に進学してくる公立校だったので部員の数も多く、やりきれない派閥も多かった。それらは部活内にも如実に反映された。

そして勉強した後に練習に出ないと怒鳴られ、先輩からは理不尽な暴力が飛んできた。

 

 一人の帰り道はいつも、怒りと憎しみで、全身が震え、悲しさと絶望感で、体内の血がすべて、沸騰するような感じがした。

すると少しずつ僕の中の野球熱は溶解していった。一方で好きなものさえ嫌いになってしまう自分が嫌だった。だが心はもう滑り出していたので、止まらなかった。

 

その年の夏はとても暑かった。毎日が耐えきれないほどの暑さと、耐えきれないほどの長さで構成されていた。

その日も練習を放り出して、まだ嫌がる肺にマイルドセブンを叩き込みながら下校していた。

未成年でもタバコが買える時代が、良いか悪いかは分からないが、少なくとも僕はこの禁じられた行為を一人で楽しむ事に、後ろ暗い高揚を覚えていた。

 

往々にして身体に悪いものは魂にとって嬉しいものが多い。
そして読んでいた小説の主人公が未成年で嗜んでいたマイルドセブンはどうしようもなく格好良く見えた。

 
この主人公はマイルドセブン以外にもギターというアイコンを持っていた。情報統制された全体主義国家に生まれ、音楽の自由が禁止されている国で、ロックンロールをプレイする彼は僕の最初のロックスターだった。

 

分厚いその本を何度も読んでいるうちに、自分の中で、野球部や教室が全体主義国家の政府の悪者に見えてきた。思想にがんじがらめになり、思いやりを無くした人々は愚かしく見えた。正義の名の下に人の心を踏みつぶしていく彼らを嫌悪し軽蔑した。

 

部からは次第にフェードアウトしていき、いつの間にか、顔を出す事は無くなった。

代償としての制裁だと言わんばかりに、野球部員からの嫌がらせや、陰口が降り注いだ。色んな病気だと言われた。鬱病でも中二病もいいが、いつも世の中は、人を簡単にひとまとめにして攻略した気になる。

野球人口を増やしたイチローは、神戸の少年達に数多くの夢と光も与えたが、その強烈な光の裏側に数えきれない影も伸びていた。

 

夏の終わり、毎日を無気力に過ごしていた僕は父親に、三万円のアコースティックギターを買ってもらった。YAMAHAのFS-325という、もう非売品になっている機種だ。

何度読み返したか分からないその本に感化され、自分でも何か行動を起こしたかったのかもしれない。

せめて自分の中に陣取る気持ち悪い塊を吐き出したかった。それには手ぶらではいけなかった。武器が必要だった。

 

好きなミュージシャンがいたわけではないのに、ギターを買う人は少ないと思う。
僕は実在するヒーローではなく、小説の中にいる架空のヒーローに憧れてギターを手にした。

後に好きなミュージシャンは数え切れないほどに出来たが、始めた当初は殆どいなかった。そもそも音楽を好んで聴いたりはしていなかった。

 

完全にゼロから始まった音楽人生だった。

ひたすら自作で曲を作っていた。弾く曲も無いし、有名な練習曲は覚える手間が面倒だった。それにそもそも僕は何かを吐き出したくて、ギターを買ったのだ。そこに他人の曲は要らなかった。

 

音楽的な作法、ルールは何も分かっていないが、言葉は湧き水のように溢れていた。言いたかった事や、鬱屈していた感情はメロディに乗り、毎日ノートに吐き出された。

 

作品としては不出来だったと思う。それでもこの世に無い物を生み出し、記録していく行為は自分自身の存在を強く認識できた。

「自分が生まれていなければ、生まれなかった曲がある」という事実は、嫌な事、つまらない事全てから乖離させてくれた。


リスナーが一人もいない音楽は、狭い部屋の一室で、猛烈なスピードで生産されていた。どんどん学校に行く日は減っていき、食事を摂る回数も減っていった。そして作曲数を増やす程、そこに時間を費やせば費やす程、反比例するように生活のリズムは壊れていった。

もはや祈りを捧げるように書いていた。書いたものが何かを叶え、日常ではない、どこかに連れて行ってくれると信じて書いていた。もう現実を生きていく事が嫌になっていた。ここで死ねたら一番いい。頭の血管ブチ切れろと唱えながら生きていた。


それでも、いつまで経っても頭の血管は切れてもくれないし、心臓が止まる様子も見られなかった。僕は三万円のギターに自分の弱さをなすり付けながら日々を撒き散らして、生きていた。

 

夢遊病患者のように、ひたすら曲を作っていると五十曲を越えたあたりから、作った曲が、似通ったものばかりである事に気付いた。

端々は違うのだが、どうしても類似点が気になる。それは自分の中の音楽の引き出しが完全に底をついた瞬間だった。始めて一年弱でバックグラウンドが無いツケが回ってきたのだ。初めて数ヶ月、早くも僕は音楽家として焼け野原になった。

 

待っていても新たなメロディもサウンドも出てこないので、言葉が出てこない。魂の代謝が低下していく感覚がみぞおちの下辺りで、鈍く振動していた。吐き出せない時間は地獄以下だった。冷静になった脳内に飛び込んでくる危険信号は全てが僕を責め立てるものだった。恐怖にさらされながら頭の血管が切れるのはどうやら嫌だった。

 

新しい作曲能力を手に入れるという必要にかられて、アメリカやイギリスの音楽を聴いた。先人から技術を学ぼうと思ったのだ。今もマッカートニーが言った「オリジナリティは模倣から始まる」という言葉には強く同意している。

 

何から聴いてもかまわなかったのだが、小説の主人公もブルーススプリングスティーンを敬愛していたので、僕もそうする事にした。

 

ブックオフの中古コーナーで、スプリングスティーンとニールヤングとビートルズを買った。セール品で安かったのもあるが、小説の中で名前が登場したからだ。

古くさい音楽だろうな。ぐらいには思っていた。

しかしそれはもう、圧倒的だった。洗練されたメロディに、タフな演奏。七十年代、八十年代に作られた作品が、僕にとっては最新だった。

 

その日を皮切りにひたすらロックミュージックを聴き続けた。とても楽しかった。楽しいだけではない喜びに包まれた。

ロックミュージックを聴いていると、あの日の帰り道とは、全く違うエネルギーに満ち溢れた血の沸騰、興奮を感じられた。

そして、なんというか離れた時代、離れた国にも、自分達の存在を、ただ音楽に燃やしていた男達が存在する事が、嬉しくなっていた。

 

僕はずっと一人で枯れた感覚を焼べるように歌を作っていた。
だが、同じ感覚を持って、生きている人間が世界には確かにいた。

おこがましいが、この頃の僕は世界のロックスター達に仲間意識みたいなものが芽生えていた。

 

おかしな話だと思う。狭い部屋で、誰にも聴かれない音楽を作っていた極東の国の子供が、欧米のレジェンド達に強いフレンドシップを感じていた。でも、これはもう心から感じてしまっていたので、自分でもどうしようもなかった。

 

バンド名が印字されただけの真っ白なCDや、ロンドンの路地ですれ違う人のCD、赤ん坊がジャケットのCDから歴史的名曲が毎日脳内へと流れた。その間だけはソングライターに寄り添ってもらっているようだった。

自分の苦しみを代弁するような歌がいくつもあった。

学校での苦痛な時間も、延々と歌で耳を塞いでいた。学校での一人ぼっちは変わらなかったが、もう寂しくはなかった。

ロックミュージックには不思議な力があった。パーティのフィーリングや、ポジティブの押し売りではない確かな温かさの手触りが伝わってきた。それはリアルで悲しくて、鋭くて優しかった。気付けば病的に音楽を作る生活からは脱出していた。

 

聴き終わると必ず彼らの真似でしかないような曲を書き、また別の音楽を聴いてというルーティンを繰り返した。この一人で音楽をやっていた時間はとても大切だった。技は知らず知らず、練られ、磨かれていった。
 

同じ事をずっと繰り返す事は非合理的かもしれないが、大きな意味があると思っている。中学高校の五年間、このやり方を繰り返し、二百曲近く作っていた。

 

三年生になる頃、楽器店でとある女の子と知り合い、一枚アルバムを貸す事になる。シンプルな青の背景に、やたらと居心地が悪そうにしている四人組のCDだ。苦しみながら失敗と挑戦を繰り返す彼の歌詞が大好きだった。

 

腹が立てば、悲しくなれば、喜びがあれば吐き出し、それを昇華できる。
そんな得た能力が先人から受け継いだ賜物である事を、忘れない為に歌を作った。
http://qooland-lyric.jugem.jp/?eid=15 

人が孤独であるとを教えてくれるものがつかある。一つは人混み、一つは夜、そしてもう一つは悲鳴が上がらないほど痛めてしまった心だ。

 

 あの日もそうだった。

「おつかれさまでした!」

「じゃあとりあえず、持ち帰ってまた報告します!」


これ以上ない程に通常の別れの言葉。誰が聞いてもまた次があると思う声色。


それが彼と交わした最後の言葉だった。明るく聞こえるその声を、もう少し注意深く聞いておけばよかった。 

 

 

4月になった。今からちょうど一年前も4月だった。

季節はまだ温かくなったり、寒くなったりを繰り返していた。それでも4月という月の魔力は相当なものらしく、街を行く人々は昨日より薄着になったように見える。


街の様相を眺めていると、まるでどこかの権力者が「春に恥をかかせてはいけない」と言い出したのかと勘違いしそうになる。それほど3月31日と4月1日には、大きな隔たりがあるらしい。

 

かく言う僕も多分に漏れずまだまだ寒い中、コートをしまい薄着で出歩いていた。すぼめた肩が痛みを伴う肩こりを誘発した。

しかめっ面で歩く新宿には春一番が吹きこんでいた。相変わらず人混みにいる程、世の中から孤立しているように感じていた。

汚れたガードレールに腰掛けながら、年が明けてからの3ヶ月を振り返っていた。

 

1、2、3月と年が明けてからの3ヶ月間、僕は何もしていなかった。正確に言えば何も出来なかった。

ライブ活動はやっていたのだが、制作においての物事が進まなかった。契約していたレコード会社との関係値は異様に悪く、予定を先送りにされ続けていた。

会議はいつも水を打ったようで、テーブルの上を言葉が潤滑に飛び交う様子などは殆ど見られなかった。楽しくやりたくない人間は一人もいないのに、楽しそうな人間が一人もいない重たい空間が宙に浮いていた。

 

意味もなく経過していく時間は月を跨ぐ度に、頭に鈍い痛みを与えていた。何かをしたくても、何もできないのは苦しかった。

そして状態は整わずに予定されていたDVDとシングルのリリースが発表された。


発表はされたものの、練り上げられた流れではなかった。「とりあえず予定をこなさなくてはいけない」そんな妙な空気を、これから訪れる春のせいにしてしまいたかった。

しかしもはや僕らに関わるあらゆる人が、疲れていたように見えた。徐々にモメる事すら減っていった。

 

好転しない関係値は、汚泥したやり取りを繰り返した。だがシングルをリリースする夏は待ってはくれなかった。梶は整わずに船は出た。

レコーディングの工程が終了した時点でもう五月を過ぎていた。発売時期まで時間が無い。本来過密する必要の無い過密スケジュールの中、プロモーションビデオの撮影は行われた。

 

撮影のプロットや段取りを会社が仕切るか自分達が仕切るかという問題に直面した。


正直なところ、音以外の仕事は任せてしまいたかった。今までもそうしてきた。さらに付け加えると、気持ちの揃っていない人達と、一つの仕事を触る作業に僕はもう辟易していた。

だが信用していないのも事実で、やれるものなら自分達でやりたかった。どちらにせよ片方が全てをやらないといけないと思った。手を取り合う事はロクな結果にならないと思っていた。最高の形とは言えないが、眼前に最悪の形があれば避けたいのは人情だった。

 

「君らの意志を尊重したい」

 

会社のスタッフから出た言葉だった。意外だった。なんと映像の仕切りをほぼやりたいようにやらせてもらった。それも会社が折れたという印象ではなく、任せてもらえたと言っても差し支えなかった。

監督のキャスティングから内容、イメージまで、余計に手を入れられる事はなかった。

この作品を会社と関わる最後の作品にするという話し合いは済んでいたので「最後ぐらい自由にさせてやろう」という気持ちがあったのかもしれない。

僕自身も一度は意志が統一された芯の通った映像作品を残したかった。

最後の作品にして、ようやくそれが出来るかもしれないという期待が膨らんだ。

 

撮影は順調そのものだった。

監督によるカット割は練りこまれていたが、いざ撮るとシンプルで、難しいポイントも特別無い。二日に分けての撮影となったが、最終的に予定されていたスケジュールは完璧に進み、スタッフの手際が良く、文句の無い現場だった。撮り終えた日は気分が良かった。


その直後だった。監督と一切連絡がつかなくなったのは。

 

「監督は孤独だったのかもしれない」と考えられる程の余裕はなかった。

 

電話をかけた。SNSの動向を追った。アシスタントの職場にも行った。

 

まるで最初から存在しなかったかと思う程に、監督の痕跡は完全に消え失せた。彼のアシスタントは困り果てていた。

だがそれにも増して困り果てたのは僕らだった。キャスティングを自由に決めた分、自らで負債を負う責任もあると思った。苦しかった。 


手に入りそうなものが、また直前で滑り落ちていく手触りに、寒気がした。

「もう何度目なんだ」と呟いたら降りかかった不幸が現実に起こり得てると実感できた。

また人間はよく出来ている。悲しい事が続くと何処かが壊れてしまわないように、しっかりと感情は鈍化する。 しばらく何も感じなくなった。

 

結局プロモーションビデオは完成せずに、シングルは発売日を迎えた。僕らは会社との関係値をゼロにした。

最後は誰が悪くて、何が悪いのかよく分からなかった。自分を始めとするそこにいた誰も正しくない事だけは分かっていた。

 

夏になってしまっていた。例年に比べて暑かったかさえ、覚えていない夏だった。

 

アルバムを作る事にした。

もはや何かを失くすサイクルが、何かを作るサイクルを追い越してしまっていた気がした。

失態や喪失を、上書きしたかった。負のエネルギーを、新しいものに変えていきたかった。

そんな苦しみから引き上げてくれる音楽に感動して、僕はギターを手に入れたはずだった。

僕らは音楽に救いを求めていた。

そして作りすぎた音楽を外に出さないと、どうかなってしまいそうだった。

 

まだ聞き馴染みのなかったクラウドファンディングという手法を用いた制作が始まった。イギリスで生まれ、アメリカで発展した手法だ。

誰に勧められた流れでもなく、自らで辿り着いた場所だった。

インターネットでファンに制作資金の支援を募り、支援額に合った特別なサービスをリターンするシステムだ。知った時はいかにもアメリカ人が好きそうな仕組みだと思った。

驚く事に支援額によってはレコーディングにコーラスとして参加する事や、練習スタジオに招かれる事もある。

この従来にはない程、ファンがバンドの内部に踏み込めるシステムに賭けてみる事にした。発売日を発表して与えるよりも、発売日にファンと向かっていくアルバムが必要だった。何より自分に必要だった。

 

様々なリターンがあった。あらゆるリターンでファンの心情を知り得る事ができた。一つ一つに大きすぎる影響を受けた。

そして最も影響を与えたものが「サシの弾き語り」だった。


ライブ会場で弾き語りをやれば当然だが、僕一人対複数人という状態になる。これを個室でマンツーマンでやるサービスを考えた。スタッフもマネージャーもいない完全なマンツーマンだ。

驚いたのがこれに申し込み、支援してくれた人達はあまりLIVE会場に来るような人ではなかった。勿論普段見る人もいたが、遠くから新幹線や飛行機で来てくれる人もいた。

 

十人にマンツーマンで歌を歌わせてもらった。その人達と直接話し、歌う事はとてつもなく大きい経験だった。一本ずつ自分が何かにしていく実感があった。

 

「会場には行けないけどCD全部持ってます。だからこうしてアルバムを作ってくれて本当に嬉しい」

 

という人がいた。冒頭に書いた年が明けてからの活動では何も届けられなかった事になる。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 

LIVE主義、現場主義の昨今の音楽シーンの事情において、珍しいスタンスの人かもしれない。僕も眼からウロコがバリバリ剥がれる感覚だった。

そしてその衝撃を超えて、本当に嬉しかった。歌う際に高揚し過ぎて、リズムが普段より荒れていた事も合わせて、申し訳なく思う。

 

話した事を一生忘れられなそうな人もいた。

 

「死のうと思っていたところに生きる力を貰えました」

と言った人だった。

 

頭は撃ち抜かれたような衝撃に見舞われ、自分が動揺しているのか、感動しているのかすら分からなかった。


初めて会う人だった。

会場でも見かけた事のない人だが、ずっとCDを聴いてくれていたと話してくれた。僕は
人を救う事は出来ないけど、作ってきたものが「手を貸す」ぐらいのものにはなれていた事実は、とても強いインパクトだった。

何よりも自分の音楽に、正面から返事を貰えた瞬間だった。僕が書いた言葉は、その人の中できちんと呼吸をしていた。

歌う事が難しくなる程の鼓動が鳴った。胸の奥がどこかに吸い込まれそうで、猛烈に痛くなった。声が出ずに何度も歌い出しをやり直した。

 

死のうと思っている人も、生きようと思っている人も社会には沢山いる。

社会という山で遭難しているか、登山しているかの違いだけだ。

誰しもが「山にいる」という点は同じにも関わらず、決定的に異なる存在になる。

歩く道を見失えば、たちまち遭難する。

そうして生きたい日の合間に、死にたい日は突如挟まってくる。それは予告無く差し込まれ、突如降り注ぐ。


僕も獣道ばかり歩き、遭難と登山を繰り返してきた。

だが道を失くす度、死にかける度に、手を引いてくれる他のクライマー達が常に側にいてくれた。息が出来ない日には、酸素ボンベのバルブを開けるように音楽を作ってきた。


そして本当は一人ぼっちでない事を、千切れそうな痛覚の中で自覚してきた。

満たされきった幸せな毎日の中では、気付けない事が沢山ある。

その淀み、病んだ心から生まれたものは明日の自分を癒していた。そしてそれは何と他者にまで届いていた。

 

普段僕らは孤独だし、間違う。そして間違う度に、死にたくなる程の心の痛みに襲われる。

だが、そんな沸き立つような痛みがあるからこそ、隣りの存在や掛け替えのないものの価値を知る。

 

願わくば自分の音楽が響いた人達と、一緒に死にたい日を超えていきたい。

普段が独りなら、たまには誰かが他人じゃなくなる夜があってもいい。

 

監督にしてもそうだ。

いなくなった理由は独りだったからかは分からない。

それでも独りの人が、今以上に独りにならないように、普段独りぼっちの人に届いてほしい。


そんな願いを込めて「一緒にやろう」「一緒にいよう」という意味合いのタイトルを付けて歌を作った。

パーティー感覚でつけた訳ではない。自分にとっての、祈りの言葉だ。

 

https://www.youtube.com/watch?v=M9IXjSTskPU

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