月別アーカイブ / 2016年03月

頭上の雲まで茜色に染まったかと思うと、次の瞬間には夏の夕闇がにわかに濃く迫ってくる。そんな表現がよくよく似合う、時間の流れがやけに早い一日だった。もう20年以上前の事だ。

 
 
人生には数多くの節目がある。
その中でも誰の身にとっても指折りの節目がある。それが、幼児から小学生になるタイミングなのではないだろうか。
 
小学校では6つも上の人間が先輩として君臨し、勉強や運動で競争を強いられるようになる。

温室でぬくぬく育ったそれまでの社会と比べると、圧倒的大人の社会であり、厳しくも自分の可能性を試す世界と言える。
そして目に映る一つ一つに感動を禁じ得ないほどには、幼すぎる多感な時期でもある。
 

入学したばかりだった僕の目にはあらゆるものが新鮮に見えた。

街路樹の木々は背丈よりも遥かに高くそびえ立つ塔のようで、落日に彩られ光を呼吸するように赤く燃える雲はオーロラよりも美しかった。

大人になった今よりも、一日一日が長く感じていたように思う。だがそれでも確実に日々は少しずつ進んでいく。僕の人生初の夏休みが間近に迫ったある日の事だった。
 

僕は知らない町に足を運んでみようと思った。
 
 
知らない町と言っても自宅のある6丁目から、4丁目に行くというだけの話だ。距離にすれば3キロもないだろう。
 
それでも僕にとっては初めての冒険であり、一人きりで振り絞ったちっぽけな勇気だった。
両親に手をつながれて、遠出するのとは全く別次元の興奮に胸の奥がきゅっとするのを感じていた。

「通りの先に何があるのか」「もっと素晴らしい世界が広がっているんじゃないか」
 
その期待から衝動を我慢せずに僕は家を飛び出した。

 
その日は土曜日だった。

学校は午前中で終わり、午後2時過ぎに家を出た。知らない道をどんどん進んでいった。
 
空は青く、地面はどこまでも繋がっていて、世界の果てまで到達しそうだった。焦る気持ちからか、赤信号で足が止まる度に1秒は10秒にも感じられた。
 
 
大通りをまたぎ、区画を越えていく。
立ち並ぶ家の様相は別の国に来たんじゃないかと思える程に一変した。坂道が見えてくる。大人にとってすれば、軽い傾斜だ。それでも僕にとっては最大の難所であり、永遠とも思える急勾配だった。
 
 
初めて見る一つ一つの風景に感動していた。
言葉にすると消えてしまいそうな淡い感動を胸にしまって、足の赴くまま世界の果てを目指した。


しかし一方で陽射しは宵闇に追われ、次第に周辺は濃紺へと変わろうとしていた。
 
 
空が暗くなるにつれ、僕の心にも得体の知れない暗いものが広がっていった。
そのぐらつく椅子に座っているような心許なさは、徐々に足取りを重たくした。
うすうす勘づいていたが、怖くて気付かないふりをしていた。ようやく観念して、辺りを見回した。

見た事もない風景が広がっていた。もはや自分が何処まで歩いたのかも、何処にいるのかも分からなかった。
 

とんでもない事をしてしまった気がした。
このまま二度と家には帰れないような恐怖感を感じながら、帰り道を目指した。だが前方を大きく包み込む暗闇は膨張する宇宙を思わせ、不安と寂しさからその場にへたり込んでしまいそうだった。
 
上空に浮かぶ月や一番星を頼りに歩くマンガの知識は、何の役にも立たなかった。理不尽にも僕がそんな主人公や作者を呪った頃、時刻は夜の6時を過ぎていた。鳥の声が不気味に町に鳴り響いた。
 
 
棒と化した足を使い、ただただ勘を頼りに家路を目指した。帰路の検討はつかず、家を出た時には世界の果てまで繋がっていたはずの歩道は、僕の家にだけは繋がっていないのではないかとさえ思えた。心は不安に押し潰され、泣きながら誰一人存在しない暗闇を歩いていた。
 

そんな時だった。前方に人影が見えた。僕を呼ぶ声が聞こえた。母親だった。
 
 
人生史上最大の生命の危機を感じていた僕とは対照的に母の反応は気楽なものだった。
夕飯の仕度が出来たのに、いつまでも僕が帰ってこないので近所で遊んでいると思ったらしい。そこでちょっとその辺まで探しにきた程度の事だった。
 
しかし、母親に見つけてもらった安堵から僕はわんわんと泣いた。
初めて味わった孤独と、そこから救出された安堵感はあっさりと感情を決壊させた。
 
あの遠い路を駆け通してきた心細さを思うと、いくら泣いても足りない気持ちに迫られながら泣いていた。
 
それにしても人間の心というものは現金なもので、それは子供でも例外がないらしい。先程まで真っ暗闇に見えた世界が急に明るく見えてきた。
 
情けない話だが暗いといっても街灯は幾つも灯っているし、立ち並ぶ家の窓からは明かりが無数に漏れ出していた。
 
恐怖にかられれば柳の木でさえ幽霊に見えるとはよく言ったものだ。
落ち着いて見上げた神戸の空の夕方は、目をつぶっていても心に届いてきてしまいそうな美しさを放っていた。
その風景と共に冒険の高鳴りと孤独への不安、そして自分を護る存在の安堵感を一度に浴びた一日を終えた。
 

この話は未だに不思議な事がある。僕が彷徨っていた場所まで母が真っ直ぐたどり着いた事だ。
 
本人に聞くと「なんとなく」というあまりありがたくない解答が頂けた。だが僕の中で母親、ひいては女の人の持つ愛情というエネルギーの強力さを実感したエピソードだった。
 
 
それからも僕は人生の窮地で女の人の持つ独特の不思議な力によくよく護られてきたし、腕力などではない強さに生命そのものを救われてきた。
 
今これを読まれている皆様にも自覚があるやも知れないが、我々男というのはほとほと馬鹿な生き物である。

子供の頃から女の子の方が考えも大人である事が多いし、どうやら反抗期も圧倒的に男の方が多いらしい。
 
さらに付け加えれば大人になってからもその過ちを繰り返す。
 
僕も注がれる愛情に慣れ、感謝を忘れる失態は日常茶飯事だった。当たり前にそこにあるものと勘違いし、勝手を幾つも犯してきた。
 
正直生まれてきてから気兼ねなく勝手をやってきた。しかし自分一人では不可能だった。立てているステージを作っているのはそこに立っている人だけではない。そんな事を忘れない為に作った歌をアルバムの最後に添えた。

「もしも優勝するとなるとこちらから一年以内のリリースをお約束して頂かないといけませんがそちらは問題ありませんか?」


「はい。問題ありません!」

「では・・・・・・!」
 
 
やけに間が長い。
 
 
「おめでとうございます・・・・・・! 今年の優勝者として是非よろしくお願いします!」

「ありがとうございます!」
 

遠回しすぎるその電話は、応募していたコンテストの優勝を告げる朗報だった。
自分の音楽、仲間と何かを削り合って宿した毎日がその道の権威に認められた。その喜びはまさしく盆と正月が同時に来たと言わんばかりだった。
 
それなのに窓に映る六月の空模様は灰色に染まり、生温い風は紫陽花の葉を不景気そうに叩いていた。
 


2013年の夏は例年より気温も高く湿度も高かった。
TVのニュースは熱中症で倒れる高齢者と、大手コーヒーチェーンの売り上げについて毎日報じていた。
 
そんな年に僕はとあるコンテストでグランプリを獲得し、凄い人数の前で演奏する機会に恵まれた。
 
 
楽しかった夏が終わると、今まで僕らに見向きもしなかった音楽関係の会社やレコード会社が数多くやってきた。


受賞前と後で作った曲が変わったわけでもない。
それなのに突如評価された違和感は解答用紙を白紙で提出し、合格したような気持ち悪さがあった。

結果を作ることより結果を数えることしかできない人間の数が、僕の前で浮き彫りになった。
 
だがそれでもやってきたことが認められた事実は嬉しかった。
自分の歌が、会社のようなとことに必要とされているのは初めてだった。


そんな奥歯に物が挟まったまま、ご馳走を食べているような悩みを抱えて、僕は歩みを進めていた。
 
年間に100本を超える公演スケジュールの中、一緒になる会社が決まった。会った回数や大手特有の具体性のある話は魅力的だった。
 
レコーディングスタジオのグレードは町の安スタジオから激変し、メディアの露出も急増した。

初めての経験が多く、最初は大変だったが、楽しかった気がする。そこから15ヶ月の短い期間で6作の音楽、映像ソフトを制作した。
 
 
しかし現実は厳しく僕と会社との溝は深まる一方だった。
音楽会社と言えども会社のスタッフは言わば一般的な会社員になる。話をしていくだけでも大変な苦労が連続した。だが触り合う音楽は一つだった。


社員たちから言われている内容が僕には分からなく、それに分かったフリすら出来ない日が増えてきた。

本を逆さにして、後ろから読めと言われてるような違和感と価値観の違いに夜を泣いて過ごした。

一方、公演スケジュールは変わらなかった。
年間100本以上をやり続け、それでもリリースやメディアの仕事は常に回転していた 。

身体や心はパンク寸前になっていた。


アーティストと会社がうまくやれなかったという話は古今東西、無数にある。
自分達も例に漏れず、そうだったというだけの話だ。
 
もはや原因も理由も分からないし、どちらが悪いという話でもない。と言うよりも考えるのにも疲れていた。

少なくとも自分の好きな音楽で、関わる人が苦しんでいるのは分かった。それだけは悔しく、悲しかった。
 
そしてそれぞれの言い分を言えないまま、他人通しの夜を超えて、僕らのチームは進んでいった。

 
未来永劫続くとも思われた変わらない状況と吐き出せない感情は日々募っていった。僕は陽が沈むように、ゆるやかに、そしていつものように壊れていった。
 
苛立ちは醜く形を変え、様々な方向へ放たれてた。
僕の心の弱さは次第に自分から他人、そこら辺に置いてあるもの、無関係なものまでに及んだ。
 
壁を殴れば叩きつけた拳の肉が裂け、骨が軋んだ。口を開けば本心なのか分からない事しか言えなかった。

もはや頭で考えるよりも先に、心と身体に導かれて行動していた。
アドレナリンのせいで痛覚は麻痺し、傷が開いた手の甲はやけに遠くに見えた。割れるような頭痛を振り払うための打撲が多くなった。


作る音楽の中にしか本心が宿らなくなっていった。「言えない人が言えてたら」という歌の詞を50分弱で書き上げた日があった。創作に逃げ込んで、社会から目を背けていた。

毎日のように新宿でよくない酒を煽っていた。
自分が窒息していることにさえ気付かなかった。

酒は不味くつまらない癖に何故か飲んでいた。

街ではくだらない人間と付き合って、くだらない人間になったと思った。それもいいと思った。

自分の人生から段々と臨場感が無くなるのを感じていた。それでも足を止めたくはなかった。絶望が闘志を飲み込んでしまいそうで、それだけは許せなかった。
 

春が来る頃に熊本で一本の公演があった。

同時間、近いエリアで幾つものアーティストが演奏し、リスナーは好きなステージが観れる。バイキング形式の「サーキット」と呼ばれるライブイベントだった。ここ最近の音楽シーンにはよくある形態らしく様々な土地で行われている。

 
僕らの出演と同時間にも様々なアーティストが演奏する。初めての熊本でリスナーを集めるのは困難だと思っていた。
 
わざわざ飛行機でガラガラのフロアに向かって歌いに行くのか。と思うと気が重かった。自分の心が集中しているのか、拡散しているのかよく分からない奇妙な感覚だった。
 
 
いざ当日ステージに立つと気持ちが折れかけた。200人ほど入るスペースに10人程しかいなかったのだ。そんな客入りで演奏するのは久しぶりだった。しかも日本の端っこの熊本県だ。

胃が収縮するような倦怠感が全身を包み込みそうになった時、ふと客席を見ると僕の目を引く顔があった。

普段近畿、中部のライブに来てくれているファンだった。初めてライブハウスに来た中学生のように目を輝かせステージが開けるのを待っていた。
 
驚いた。
 
 
本土ならいざ知らず、熊本に来てくれている。
僕たちなんか、年間に100本もやっているのだからいつでも観れる。

それなのに、こんなところまで自分の音楽を聴きに遠出してくれる人がいる。それに驚きを隠せなかった。
 
その映像は一瞬網膜に焼きついただけだった。
だが
相次ぐ苦しさに気持ちが切れかけていた自分の情けなさと心細さに確実に流れ込んだ。

余分な感情が溶け出す感覚を覚えた。たった一人の存在のありがたさに焼けるように胸が熱くなった。

 
 
好きなもので何かを成した証が欲しかった。大手に所属する事で手に入るものもあった。

 
だがそんなものが増えすぎて一番大切なものが見えなくなっていた自分の愚かさを知った。

気付くとライブは始まっていた。オーディエンスは10人程度しかいない。でもその10人にとって少しでも意味あるものを残したかった。
 
一曲歌う度にオーディエンスが増えている気がした。もう一曲歌うとフロアの半分が埋まっているように見えた。実際に増えていた。
 
休んでいる客に様子が伺えるように、TVモニターが設置されライブは永続的に中継されている。それを観て来たのかは分からないが、他のステージから吐き出された人がどんどん流れ込んできていた。
 
 
ライブの終盤にはフロアが満員になっていた。
植物のように無感覚だった神経が、乾燥した冬の感電のように過敏になっていくのを感じた。「しびれるライブだった」という高校生の頃に読んだ雑誌に載っていたカナダのミュージシャンのコメントを思い出した。
 
 
嬉しかった。
 
喜びで世の中が明るくなったように見えた。自分の心が身体を通して、知らない街の人の心に突き刺さった。

その200人のフロアは今まで見たどんなステージよりも輝いて見えた。それは、最初に居てくれた10人がいなければ、決して作られるものではなかった。日本の端である熊本という街で東京では学べない大きな事を教わった。
 
 
それから数日後、レコード会社を離れる事が決まった。円満にだ。ただ自分が歌を届けたい対象が明確に分かったおかげでかかっていた靄が晴れたように思えた今、必要性を感じなかった。
 
当然大きいステージやトップチャートを目指している。それとは矛盾するかもしれない。でも僕の音楽は誰にでも届けば良いわけじゃないと気付いた。
 
流行り廃りを超えて僕の音楽が大切だと思ってくれる人、そんな一万人が集まった風景を見たい。それを忘れない為に歌を作った。



貧乏だった。とてつもなく貧乏だった。

 

僕の生まれ育った街は、神戸市営地下鉄の最果てにある。簡単に言うと、「ニュータウンを気取った田舎」だ。


コンビニが出来たのは僕が17歳の時で、ビデオレンタルショップが出来たのは18歳の時だった。


2016年現在、未だにコンビニは24時間営業ではない。その理由としては、「不良の溜まり場になるとから」という、臭い物にひたすらフタをする排他的なものらしい。

これもうわさ話で恐縮だが、狭い地域にありがちな短絡的な権力者がいたと、後々聞かされた。

 

僕はこの街で高校3年生まで過ごしていた。

悠々自適だった。

18年も生きていれば、些細なトラブルはあったが、逆に言えば大きなトラブルはなかった。


街に住む人達は殺人はしないが、イジメはするような気取った小金持ちが大多数だった。

大人たちの世界なのに、村八分があちこちに散乱していた。そんな親に育てられた子供が形成される学校の色もそんな色だった。


矢吹丈やリアムギャラガーをはじめとするアナーキーなヒーローに憧れていた僕は、フィクションの脇役のような性格の彼らが好きではなかった。

しかし、大きなモメ事は無かった。それなりに上手くやっていた。


そんな特別楽しくもないが、平穏で保障された暮らしが永遠に続くと思っていた。だが、その永遠はある日、突然崩れさった。

 

その夜は自室でTVを見ていた。ブラウン管の中では駆け出しのお笑い芸人が大物司会者に気に入られようと、目をギラギラさせている。

すると乾いた音のノックが聞こえた。

鍵も備えていない無防備なドアが音を立てたのは久しぶりだった。


「話がある」


親父だった。

親子間で言葉を交わすのには、丁寧すぎるその宣告に、僕の背筋と部屋の空気は張り付いた。


僕は昔からこういう空気は大の苦手だった。この空気が流れて、人類史上ポジティブな話になった試しが無い。


「なに?」


平静を装ったが、自分自身の口から放たれた声のトーンは普段よりやけに高く聴こえた。


「この家無くなるから何とかしなさい」


想像の斜め上。いや、その更に上を行かれた気分だった。


「いやいやいや、困る!急に言われても困るっつーの」


慌てふためく僕を裏腹に「まぁもう決まったから一人で暮らしてもらう」


大雑把に父は言っていた。

僕の脳内には変な音が鳴っていた。父の声はもはや、よく聞こえていなかった。

 

未だに詳しく知らないのだが、諸々の仕事の事情らしく両親は僕を置いて神戸、ひいては関西圏を離れる事になった。

 

平穏という形の無いものは変わらない一日一日の連続が積み重なり作られる。

だが積み上げられた平穏をなぎ倒すのは、意外に容易らしい。そびえ立った積み木細工の下段を一気に抜くようだった。僕の平穏は一瞬で崩れさった。

 

4月になり、僕は阪急線の十三という街にいた。


大阪には変わった読み方の駅が多いが、ここも多分に漏れずに『じゅうそう』と読む。関東圏の人はまず読めないだろう。


大阪の心臓部である梅田駅の隣りであり、地元である神戸に直通できるその利便性からここに住もうと決めた。

高立地の割に家賃が安く、進学先からも5駅ほどだった。よく駅の下見もせずに決めた。今思うと安易だった。

 

この街には僕が今まで酸素や水のように無限に有ると思っていた『治安』が存在しなかった。


代わりに往来での取っ組み合い、恐喝、盗み、器物損壊が酸素や水のように豊富にあった。18年間もぬるま湯にいた僕からすると、悪の華が咲き乱れる修羅場そのものだった。


ついでに道端で暮らす人間を見たのも初めての経験だった。その道で腕ずくで財布を盗られそうになったのも初めてだった。僕はあんなに嫌っていた地元に帰りたくて、毎晩泣いた。

 

春先は学校に友人も殆どおらず、とても寂しかった。狭いワンルームの部屋で聴いてくれる人のいない曲を毎日作っていた。たまに高校の頃の音楽仲間が来るぐらいだった。そんな明るく楽しくない新生活が少しずつ滑りだしていった。

 

セミは鳴いていないが、薄着をしても体調の心配をする必要もない。そんな気候になりはじめた頃、仲間達とバンド活動を始めた。

音楽活動は本当に楽しかった。友達に紹介されたドラマーがメンバーにいたのだが、本当に上手だった。


僕が高校生の時に一緒にやっていたメンバーとは雲泥の差だった。作った曲を上手なメンバーと爆音でプレイできる喜びは生き甲斐だった。その快感を頼りに身体を引きずって生きていた。

 

そして、一人の暮らしは貧乏だった。


アルバイトの面接に幾度と無く落ち、辿り着いた職はピンクチラシを無差別に投函するという不名誉なものだった。


貰える賃金は少なく、「健康で文化的な暮らし」には大きく足りなかった。まるで火星までの燃料で、木星を目指しているようなものだった。

 

その日も地図を見ては、アパートからアパートへと歩いていた。どういう基準か知らないが、ピンクチラシの配布先に指定があるのが面倒だった。


地図通りに、僕は裏路地に足を踏み入れた。かつて人気があったことが一度でもあるのだろうかと、疑いたくなるような裏路地だった。

建物の隙間から吹きこむ風が手に持っていた商売道具をパタパタと叩くのがうっとおしかった。チラシの音以外に聞こえるのは遠くで鳴る踏切音だけだった。

嫌な静けさがこぼれ出しそうだった。その最奥地に、ようやく目的のアパートを見つけた。

 

ポストへと歩を進め、投函していった。

品の無いデザインに、品の無い内容が書かれた紙が、無機質な銀色の箱に一枚ずつ吸い込まれていく。

無意識に投函を続けていたそのときだった。

 

「おい。勝手に何してる!」

 

横から急に怒鳴られた。ビックリして、心臓が跳ね上った。


音のしない空間にいきなり飛び込んできた大声は、僕に対する敵意に満ちていた。そちらを向くとアパートの管理人と思しき初老の男が立っていた。「睨みつける」という動詞がふさわしい眼光だった。

 

「ーーいや、チラシを・・・・・・」

「何しとんねん!誰に許可もろてやっとんじゃ! 警察呼ぶぞ!」

 

自分がどれぐらいの悪さをしているのか認識できなかった僕は何も言わずに駆け出した。反対の出口から通りへ飛び出した。


「おい!待てコラ!」


後ろから怒号が聴こえたが、振り切るように走った。走りながら心の中に苦いものが広がっていくのが分かり、気持ち悪くなった。


通りの出口にたどり着いた時には息が出来なかった。全力疾走のせいだけではないように思えた。

金銭だけじゃなく、僕を形作ってきた色々な要素が失われていくのを感じていた。自分の体から悪の華の香りがした。

 

それからと言うもの場所や諸々、配布する際に決められたルールはあったのだが、次第に適当に数を誤魔化していた。

自由出勤と違法の線上にあったポスティング業にモラルも忠誠心も無かった。

何より僕はもうあの急降下して息が出来なくなるような不快感を味わいたくなかった。

 

僕たちのバンド練習は町の安い貸しスタジオを使っていた。

音も劣悪で設備も良くはなかった。あまり手入れがされていないマイクやスピーカーは、いつもキンキンとハウリングを起こしていた。


その日も練習というにはあまりに不真面目であり、遊びというにはあまりにも本格的な二時間が終わった。

 

「おつかれー」

「また来週」

 

待合室にメンバー達の声が行き交う。

相場よりは安く、僕の預金には確実に痛恨である料金を支払い、スタジオを出た。


帰り道はもう六月だというのに妙に薄暗かった。夜道に人の気配もしない。虫の羽音が街灯に巻き込まれ、その度に気味の悪い音が妙に響いていた。

 

下を向き歩いていた一瞬だった。

ワゴン車に引きずられたのかと錯覚するようなスピードで後ろから肩を掴まれた。

そのまま一気にコンクリートに叩きつけられた。速く重たいストンピングが熱帯のスコールのように降り注ぎ、焼けるような痛みが襲ってきた。自分の身に何が起きたか分からなかった。

 

チラシの元締めの男だった。


配られたチラシの数が合わない事に気付いた男は怒り狂い、僕が一人のところを奇襲したのだった。

男は僕を死ぬ直前まで殴りつけた。身長190センチを超える大男の拳が顔面にめり込む恐怖はハンパじゃなかった。


めくれていない皮膚がめくれ、焦げはじめるかのような危機感に、全身の自由が奪われた。


ボロボロになった僕に男は現金を要求し、二つ返事で僕は預金の大半を吐き出した。


風前の灯火を続けていた残高は、動脈を破ったかのように引き落とされた。


大した額じゃない事実は心を安堵させたが、自分の命の価格と思うと情けなくて涙が出た。そして何故ここまで失うのかと悲しくなった。たった3ヶ月で人間の暮らしがこうまで変わっていくのかと信仰もしていない神を今さら呪った。

 

しつこいが本当に平穏というものは一瞬で崩壊するらしい。


あっという間に人生史上最悪の貧乏生活が始まった。

アルバイトを失い、預金まで奪われたダメージはしっかりと身体と心を蝕んだ。自分の人生に歴史があるとすれば、この時期はありとあらゆる最下位を更新し続けていた。


なけなしの500円は空腹を満たせない野菜には使えなかった。天秤に栄養と満腹感をかけた時、栄養を選択できる程賢くはなく、なるべく米を買う日々が続いた。野菜はヨモギを摘んで代用した。


夏の後半にはついに夜の路上で倒れた。栄養失調だった。ただれた消費者金融の看板と、三日月が十三の夜に燦々と輝いていた。

 

心は泣くとその分歌うとはよく言ったもので、その頃はよくストリートライブをしていた。現在は綺麗に整備された十三の東口だが、当時は妙に雑多で警察の注意も一切無かった。


深夜の歓楽街特有の曖昧な灯が僕は大好きだった。日付けが変わる頃から4時間ぐらい東口で歌うのが日課になっていた。


「失うものも無いし貧乏な自分にはお似合いだ」と半ば自棄になって始めた活動ではあったが、アレは僕の音楽人生において大切なターニングポイントだった。

 

道にあぐらをかいて、道行く人に歌うなど気取ったあのニュータウンに住んでいた頃の自分からは想像もつかない絵面だった。

だが妙にしっくり来た。それまで嫌いだった汚く野蛮な十三と、そこに住む人々が好きになっていったのはこの路上ライブがキッカケだった。


世の中には立ち上がった時の目線、歩いている時の速度では認識できないものが数多くある。

何故か座り込むと「目を凝らす」という動作が自然にできる。不思議と空を見上げる回数も多くなった。数分前には目に映らなかった小さな星が数え切れない程瞬いていた。

 

街には人がいて、確実に回転していた。

その忙しく高速に回り続けるものの本質は、歩きながらでは到底見えなかった。


僕は未だに地方の知らない街に行くと、座ってその街と道を行く人々を見る。

目を凝らさないと本質や美点まで辿り着けないものは山ほどある。この世には分かりにくくても、良いものが沢山ある。

 

毎日、道で歌い続けた。

座り込み、人々より遥かに低い視点で街を見つめながら歌った。最初はただ夜に向かって声をぶつけていただけだった。だが次第に街は僕を認識した。


道行く酔っ払いは1000円札と一万円札をギターケースに放り込んだ。

ビザ切れのアジア人の女には5日続けて食事を奢ってもらった。

ギターを貸したニューハーフは僕の曲を僕より上手く弾いた。


「おー兄ちゃん。またやってんなー」


と言われるのが嬉しかった。


自分が作る歌にどうしても書かざるを得ないようなものが宿っていくのを感じていた。一人で暮らしてから、音楽がますます好きになっていた。

 

それからも、街で奪われたり騙されたりはあった。傷の上に傷が重なっていくような理不尽だって浴びた。


でも毎日は苦しかったが「その街に降り立たなければ良かった」と思わなくなっていた。ここで何かを歌いながら、泣いて笑って死にたいと思った。


人間を長くやっていると物事が見えなくなる時がある。

そんな時、膝を抱え地面に座り込んでいたあの日を思い出す。だから、僕はたまに座り込む。目を凝らすために、道に座り込むようにしている。

 

これは続いている。紛れもなく続いている。そんなことを確信するために歌にした。

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