自分のなかでちょっとだけ、ほんのちょっとだけがんばる。

これを何回やるかかなぁと思う。

「ひとの2倍,3倍がんばんなきゃダメだよ」と言うひともいる。そのひとはそうすればいいと思う。

そのひとは「ひとの2倍,3倍やらなきゃダメ」なのかもしれない。でもそのひとがそうだからと言って、全員がそうなわけではない。


だけど、子どものときはよくよく言われてきた。「ひとの2倍,3倍やらなきゃダメだ」と。

今考えると、なんじゃそらという感想を抱く。
 
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努力の量なんて数値で測れるものでもない。
もちろん他人と比べるものでもない。

「競争して、打ち勝つ」という富国強兵から来た思考停止している言葉だと思う。

死にたがり同士で殺し合うのは構わない。でもそっちの螺旋に引きずりこまないでほしい。勝手に殺し合ってヴァルハラに行けばいい。


僕は「自分のなかでちょっとだけがんばる」といいと思う。

自分と比較して、自分と競えばいい。どこかの誰かと比べても、むなしくなるだけだ。

どの世界でも、「比較の螺旋」に引きずり込んでくるひとはいる。誰かと比べないと価値を測定できないわけじゃない。なのに、できないと信じ込んでいるひとがいる。

そのひとたちから身を守る術がいる。
基本的には、自分を責めないことだったりする。もちろん相手も責めないことだったりする。

そんなことでどこにだって行ける。

本日は渋谷にてライブ。
「今日演っから来れたら来て」のゲリラ。

たまたま今日時間があったひとたち、会えたひとたち、ありがとう。

0.ウルトラエイトビート
1.LET IT DIE
2.新白夜行
3.孤高の人
4.ロストデイ
5.都民
6.勝つまでが戦争
7.ドグラマグラ
ワンマンライブ。
「This is QOOLAND 1/4」

告知デザインは純くんがやって、タイトルは僕がつけた。


「最も怖い思いをせずに辿り着ける歌舞伎町のライブハウス」として名を馳せているジルコにて。

音も照明もクール。分煙。
18でタバコをやめた僕としては、分煙なのがありがたい。


20曲ぐらい歌おうかなぁと思う。歌いたいことが多くてまいるなぁと思う。
共演者多数のライブだと30分の持ち時間だから、どうしても5,6曲になる。
たくさん演りたくても、演れるのはやはりワンマンなのだ。


そもそも曲のバリエーションが多い楽隊だ。
もちろん、多いから良いわけではない。


パンクバンド、メタルバンド、ジャズバンド、ブルースバンド。

ジャンルが絞られると、音楽性は多岐に渡らないけど、芯が生まれる。


僕たちには、自らを縛っているジャンルみたいなものが無い。

サウンドの芯にはポップスもあれば、パンクもメタルもグランジもフォークもマスもポストも含まれている。

何かを狭くして、絞る方が進みやすいときがある。選択肢が多いせいでぼやけることはいっぱいある。

自分が書いて歌えば、それが軸になるのだろう。そう思っている。

「20曲を演奏する」ということが多いか少ないかは分からないけど、やりがいがあるなぁと思っている。




悩みがあると思う。
僕にもあるし、誰にだってあるものだろう。

悩みが頭をよぎったら、僕はなるべく早く仕分けをするようにしている。二種類に仕分けする。


ひとつは「自分でコントロールすることができる悩み」で、もうひとつは「自分でコントロールできない悩み」だ。


自分が原因の悩みはコントロールできる悩み。
他人が原因の悩みはコントロールできない悩み。

ふつうに考えてこうなる。

 

便利なロジックがある。

「起こること自体には意味が無く、自分が自分の価値観や信念を基に、それに意味付けをしているだけでしかない」というものだ。

僕の価値観もしれないが、他の人をどうするかではなく、自分がどうなるかが重要なんじゃないだろうか。


他の人は変えられないけど、自分は変わることができる。

ワクワクしたドライブ感のある時間を過ごして、死んでいきたいなら自分がポジティブになるしかない。



他人が原因の悩みで頭を抱えているひとが多いなぁと思う。
油断すると僕もそうなりそうになる。だから、自然なことなのだろう。
でも、ふつうにそうなりたくないから、ロジックを用いる。



子どもが学校に行かない、友達が無神経でムカつく、上司が最悪、恋人が働かない。
親が不勉強でイヤ、夫がつまらない、嫁の料理が不味い。


こんなことはコントロールができない。無理だ。


人間をやっていると「他人に不足を感じる」ということがあると思う。

誰かと関わる以上は訪れる。

でもそれは慣れのせいだと思う。

磨耗した関係性がもたらした、甘えにも似た悪循環に過ぎない。

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自分の子が生まれてきたときは、それだけで感動したはずなのに。

友達と最初に笑いあえた夜は、絆を感じたはずなのに。

入社できただけで嬉しくて、恋人とは抱き合えただけで幸せだったはずなのに。

親がいなければ死んでいた幼年期があり、その上に今の自分がいるのに。

不器用な彼が愛おしかったのだろうし、彼女が初めて作ってくれた食事ほどスペシャルなものはなかった日が確実にあるのに。


それらは気がつくと摩耗する。
心のあり方は金属のようにくたびれていく。とめられないのだろうか。 


とめるカギは、感謝。なのだろうか。
親しき仲にも礼儀あり、という言葉でもいいのかもしれない。

これらは「不足に光を当てない」という感覚なのかなぁと思った。



氣志團がバンド20周年を迎え、「続ける秘訣は?」と聞かれて「期待しすぎないこと」と答えていた。

表現は異なるけど、これも本質は近いと思う。


「感謝」や「素直」はテクニックだ。

自然に身について使えるものでは無い。

できるひとは意識して、感謝して、「素直さ」を身に付けて素直になっている。

できないひとは無意識にそうなっている。


僕は一時期「感謝」なる言葉を使った攻撃を浴びすぎたせいで、「感謝」って言葉が、本当はあんまり好きじゃない。

でも、まぁ言葉には罪はないしなぁと思って、冷静になる。


「言われたくない言葉ランキング」で、未だにNo.1に輝いている言葉が「平井君は感謝が足りない」だ。

これを言われると、心を直接鎖で締め付けられている気分になる。

「感謝」という絶対的なモラルを盾にして、安全な位置から叩いてくる姿勢が生理的にキツイ。

「ガチャガチャ言ってないで、文句があるなら拳で来いよ」と答えたくなる。

考えるのが面倒で、思考停止したくなる。蛮族のような手段に走りたくなる。やはりネガティブになると、脳が楽を求めたくなるらしい。


「感謝」って誰かを攻撃するためにデザインされた言葉ではなかったはずだ。


刃物を使って、料理を作るも人間を刺すも手にしたひと次第か。

もちろん刃物に罪はない。

自分を良くするために、クールでエキサイティングな音楽を作っていくために、感謝を使っていきたい。

隣人から手紙が入っていた。

「アラームのようなものが日中鳴っている。切ってくれ」

という旨を、丁寧に伝えているものだった。喧嘩腰では無かった。

だが正直、アラームの心当たりが無い。
鳴るようなものが無い。

とにかく、返事を書くことにした。
アラームの心当たりは無いが、僕は時計を見直したことにして、返事を書きはじめた。


「時計を見直したこと」「次回うるさかったら、インターホンを鳴らしてくれ」という内容を書いた。朝。ポストに入れた。

不思議なコミュニケーションが始まったと思った。これ、どうなっていくのだろうか。着地点が見えない。

しかし、僕という人間は、つくづく隣人と因縁を引き寄せる宿命なのだろうか。


昔、トリマーが隣に住んでいたことがある。

彼は大きなタトゥーが入った右腕で、いつも子犬を抱いていた。そして、その右腕でいつも女を殴っていた。


夜になると、凄い音と悲鳴が隣から聞こえてきていた。

「止めなきゃ」という気持ちもあったのだが、当時あらゆるものに怯えていた僕には荷が重かった。

「なぜあのトリマーは恋人を殴るのだろうか」と思っていた。

「動物を大事にしているから善良な人間だ」と思い込んでいた分、衝激が強かった。

そんな、先入観は幻想だと気付いた。

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ひとを傷つける人間は、それで自分のことを守っているのかと思っていた。

ひとは自分を守るために誰かを嫌ったり、邪魔者にしたりする。このケースはもう胃もたれするほど見てきた。その性質を持ち合わせたひとは一定数、存在する。


守りたい原則がある。正解なのかは分からない。

だけど、絶対的な原則がある。

「ひとは傷つけてはいけない」ということだ。

いや、「『ひとを傷つけてはいけない』と思っておく」ということか。

まわりくどくて申し訳ない。

「ひとを傷つけてはいけない」だと、「ひとを傷つけているひとを叩く」が生まれがちな気がするからだ。


生きている限り、意識しなくても誰かを傷つけることはあるし、迷惑もかける。

そして傷つけられたりもする。迷惑もかけられる。

仕方ない。
受け手がポジティブな反応をするか、ネガティブ思考な反応をするかは選ぶことはできない。


「傷つけられたから、相手を傷つける」という手段を選びとらず、どこまでやれるかがキモな気がする。

「傷つけたくない」と思っておくとちょうどいい。
誰かを殴ると自分の何か歪んで、欠けていく。

低気圧がひどくて、地面と同化するぐらいキツイ。

花見などをして結束を深めていた。いや、別に仲違いしているわけでもないし、結束してるのだけど。


なんだかんだ毎年律儀に花見をやっている。花が大好きなのだろうか。酒が好きなのだろうか。酒が飲めない花見は初めてだったが、視界は鮮やかもいいとこだった。

しかし身内でやるパーティーは楽しい。
フェイスブックに載っているよく分からないパーティーよりも面白い自信がある。



ここんところ、花の話ばかりだ。

そんなに花が好きだったのかと思うぐらい、花の話題が多いブログになってしまった。

花なんて、嫌いでもないけど、好きでもなかったはずだ。なんとなく花が目に入る。上を向いているからだろうか。ならいいか。

石の話ばかりし出したら要注意だ。


さて今週は告知を流す。

4月も半ばをすぎたし、永遠にぼんやり続く気もした年明けから三ヶ月も経った。1/4年が終わった。

永遠も半ばをすぎたし、色々とかましていかないと、貧乏ゆすりが止まらない。

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PS.クラウドファンディングの「インディーズ最後の日のLive音源」がつくプランの方々へ。

明日、別途配送します。

対象のCDが入っていなかった方がいます。ごめんなさい。

もう全員に送ります。二重発送になってしまう方もいますが、よろしくお願いします。

この時期だけの風物詩がある。
街に「新しい人々」が溢れかえることだ。これは寒い時期には中々見られない。

新社会人に新入生に新学年。
先月まで別の肩書き、所属だったひとたちが新しくなっている。

しかし、その中でも新社会人と新入生の放つオーラは特別だ。

彼らの「新しさ」は突出したものがある。


僕は学生街に住んでいるせいで、新入生の「新しさ」を毎年目の当たりにしている。

大学1年生と2年生は年もあまり変わらないのに、天地ほどの差がある。雰囲気の話だ。


パッと見ただけでも、1年生かそれ以外かが分かる。僕だけだろうか。
新しくなりたての、まだ環境に適応できていない生物独特の「違和感」みたいなものを感じるのだ。

もちろんそれが不愉快なわけでもない。ただ感じるというだけだ。



昨日、いったん新宿に出た後に忘れ物をして家に戻った。馬鹿みたいだけどリターンをまるまる忘れたので、取りに戻った。

おかげで朝の時間帯に、新入生たちと道を歩くことになった。

朝に自宅から駅まで歩くことはあっても、駅から自宅まで歩くことは稀だった。

桜が咲きまくる道を歩いているだけだ。
それだけで気が穏やかになるようだった。

色彩や風景の装飾がもたらす影響力を感じながら、僕は歩いていた。

ふと「この街で新入生だったら、自分の人生はどうなっていただろう」ということを考えた。

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人格形成はどうなっただろうか。
進路はどうだっただろうか。
どんな友達といたのだろうか。
どんな価値観を持ったのだろうか。


パラレルワールドっぽいけど、僕たちには「失った過ごし方」と「手に入れた過ごし方」がある。

高校を出た後、僕は大阪へ行った。

その時間軸で「大阪に行った僕」がいる以上、「東京に行く僕」は失われたことになる。

僕はもう「あの時間軸で東京に行く」という人生を送ることは絶対にできないし、その場合に手に入れたものを、手にすることは100%できない。完璧に失われている。

そんな基本的な喪失に気づかないまま、僕たちは「今の過ごし方」を手に入れまくっている。こちらのルートで手に入れてきたものは、もう100%揺るがない。


ただ間違いなく、大阪ルートじゃない限り、僕はこのバンドをやってはいない。

そして「どちらが良いか」という話に意味は無いし、必要もない。

大切なのは、僕自身が「このバンドをやっていてよかった」と思うこと、僕がこのバンドをやっていることを、誰かに喜んでもらえるように生きていくことだ。


考えるほどに「現実」は希少だし、物凄い速度で観測できなくなっている。

いつか終わるのも現実だし、愛しているのも現実だから、明日がまた面白くなっていく。


ハグレや異端、ゲリラ、アウトサイダー。

適切な言葉が見当たらない。
もっと安息的で平和的なものがあればいいのだけど、思いつかない。

直感に従ったとき、システムや構造に疑問が生じるときがある。生きているのなら、ぶつかっていたい。



クラウドファンディングの発送を終わらせた。今回もありがとうございました。いやはや今回も勉強の連続だった。

いいCFになったと思っています。
配送に関する不備があればqooland.staff@gmail.comまで。



やることが多い気がする。

減らすか任すかやめるかで、やっていく方がいいのだろうなぁと思う。


自分じゃなくてもできることもあれば、自分にしかできないこともある。

でも、やることが多いからこそ「自分にしかできないこと」が分かるのかなぁと感じたりする。



先日、曲を全員でまとめていた。

出来上がったものは、とても当たり障りのないものだった。


そして「これ俺らがやらなくても別によくない?」というところに着地したことがある。アイディアとしてはボツになるのだろう。


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自分たちがやってもやらなくてもいいことがある。

反対に「俺たちがやるといい。誰もやれないことを」というようなこともある。


「誰もやれないこと」って、きっと小手先のHow toなんかではなくて、もっと根源的なものなのだと思う。

自分がワクワクすることなんていくつもない。


心の底からワクワクすることだけが、「自分たちにしかできないこと」なのだと思う。

血がたぎって、胸が躍るのならばそれは他の誰にもできないことだ。

学生をしていても、働いていても、音楽を作っていてもそれは変わらない。

どれだけ心が動く時間を増やせているかだけだ。

人間は生きているうちに「楽を求める脳」と「快楽を求める脳」の二種に分かれていくという。

思考停止や、ひたすら休むことに没頭することに喜びを見い出すのか、何か血がたぎる場所を目指すのか。

後者でいたいなぁと思う。
他人の作った構造やシステムに乗っかってるだけの時間が続くとアッサリ腐る。


夜桜が咲いていた。
昼に咲いているのだから、夜も咲いているなんて当然のことだ。

それなのに、実際に目の前に「夜桜」を差し出されないと、気付かなかったりする。
何かを目の前に差し出されて、僕たちは初めて認識する。本当にそこにあるかどうか、見ないと本当の意味では分からない。


テレビのチャンネルがそうだ。

フジテレビの番組を見ているとき、裏ではたしかにTBSの番組だって放映されている。だけど、それを僕たちは認識することができない。画面に映っているのはフジテレビだけだ。


音楽もそうだと思う。
「クリエイターしか分からないようなこだわり」を突き詰める意味も、一見不要に感じるかもしれない。

だけど、それらが全部重なって、「はいこれ」と差し出されたときに、「良いか悪いか」を決めるものは細部だったりする。


バスドラムの音質で、歌詞の良し悪しすら変わる世界があったりする。

ショボいバスドラムのまま曲が世に届くと、「ショボい曲」という感想を生んでしまう。

熱いバスドラムを差し出して、初めてその歌詞を認識してもらえる。不思議な話だけど、そうなのだ。

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フラフラと歩いて、夜桜を見ていた。
新宿から四谷の方面に歩くと、小さな公園がある。

久しぶりにそこで、夜桜を見ていた。
桜を見ながら少し前のことを思い出していた。


あの頃、一ヶ月前に東北で大きな地震が起きたばかりで、まだ東京は不安定にガタついていた。

少し不安になりつつも、僕は曲をたくさん書いていた。まだ名前も決まっていない、後にQOOLANDと名乗るバンドを始めるためだった。


合間に、よくそこの夜桜をひとりで延々と見ていた。

いつも「どうやったらみんなが専念してくれるだろうか」ということを考えていた。

今じゃ考えられないけど、始めた頃はお客さんよりも一緒にやるメンバーを振り向かせるのに必死だった。

バンドの初動期はそんなものだったりするのだろうか。前のバンドからの移行もあったり、掛け持ちもあったりバタバタがある。

だけど、僕の血は滾ってワクワクしていた。
そんな記憶がある。その手触りは今も覚えている。というか桜を見ていて、思い出した。あの手触りを。


それにしても、最近は良かった時期のことをよく思い出す。手触りまで思い出せるほどに思い出す。

反対に悪かったときのマインドが思い出せない。

悪い時期は悪かったときの手触りが思い出せたのに不思議なものだ。

その時々と脳の状態が近しいと、「こんな感じ」という思い出し方がやりやすくなるのだろうか。


そんなことを考えていたら、風が吹いてザッと音がした。桜と桜がぶつかりあって鳴いたみたいに聞こえた。


書きかけていた歌の続きを書いて帰った。

変わってない。もうしっかりとQOOLANDと名乗っているけど、根幹は一緒だ。

業者が間違えた。

DVDの枚数が完全に間違えて届いた。灰になりたかったけどならない。クラウドファンディングの発送。二日遅れて金曜日に配送します。お待たせします。



寒い時期は苦しいことや、大変なことが多かった。
隠しても仕方ないので、隠さないで感情を書いてしまうと「辛かった」になるだろう。

もちろんいいこともたくさんあった。

それに、いろいろある中で、いいことに目を向けていくのが大事だとは思っている。

だけど、どうにもそう思えない時期はある。
ナーバスになるし、中々テンションが上がらない。


それでも、暖かくなったからだろうか。状態が良くなってきた。

気圧のせいか気候のせいか分からないけど、こういうことってわりとある。

ここの読者の方にも「ちょっとテンション低いかも」というひとがいるかもしれない。

そういうひとは、この春の感じに身を任せてみてはどうだろう。日差しがバキバキにセロトニンを作って、どんどん気持ちを温かくしてくれる気がしてくる。

気のせいかもしれない。
でも「気のせい」みたいな無形のあいまいなものに身を任せてしまう時期があってもいいんじゃないだろうか。

いつも「うまくいかない気がする」と思って時を過ごすのもしんどい。

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「人事を尽くして天命を待つ」という言葉が好きだ。でもそれだけじゃ足りないと最近思う。

人事を尽くしたら、後は「なんかうまくいく気がする」という感覚で過ごしていくことだ。


「高いモチベーション」や「意識の高い努力」なんかにはみんな気が回る。

でもリスクマネジメントの調整には、みんな気が回らないらしい。

僕はリスクマネジメントはある一定のところで止めないといけないと思っている。

ピグマリオン効果に近いけど、いらない悲観がもたらすマイナスには、ずいぶんと苦しめられた。もう食らいたくない。


最初から楽観的に行くのではない。

「ある一定のライン」から調整して、切り替えていくのだ。

その一定のラインから「うまくいかないかも」という思考をなるべく捨ててしまうようにしている。

春が来ている。
ライブをやっている。制作を進めている。激しく稼働している。

4/4。ゲリラライブだった。
渋谷 乙。キノトと読む。"おつ"じゃない。


5年ぐらい前、僕らが一番出ていたライブハウスだ。あの頃はライブをやるという告知を当日にしてばかりだった。

「明日歌える?」とライブハウスから電話を受けて、「いける」と答えていた。

そして「今日ライブやります」とタイムラインに放り投げる。

その日にたまたま時間がある、集まれるひとだけが、その日だけの演奏と歌を聴きにきていた。

思い立ったように演りまくるゲリラ的ライブスケジュールを連打していた。

一本でも多くライブをやりたかった。

ロックバンドとしての本能だろうか。

僕個人ではそこまで思っていなかったのに、4人になると急に演りたくなった。

一秒でも長くステージに居たかった。ステージにいるときは雑念が消え去った。もっともっとライブがやりたかった。

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今もそうなのだと思う。いろんな環境は変わり、5年前と違うことも増えた。でも変わらないものもある。やはり一本でも多くやりたいと思う。


4人のすべてが丸出しになる「ライブ」というものを使って、書いた歌を届けていきたい。

引いては自分たちが何なのか、ライブを通して伝えたい。

バチクソにかっこいいライブバンドでいたい。5年前も2017年も変わらない。僕たちはQOOLANDなのだから。

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