「学生時代が一番楽しいからせいぜい楽しんどけ」

やたらと、そう言う大人がいた。

そうなのかと思っていたが、事実は違っていた。

「学生時代最高」になっているひともいるのだろうか。どうだろうか。


なんにせよ10代や学生のひとたちは、否定的な年上の言うことに惑わされちゃいけないし、大人たちは10代のひとたちに対し、「自分の人生」というケースが万能だと思わない方がいい。


そして、この「学生時代最高論」よりも、僕を縛りつけてきた文言がある。


それが「ひとに迷惑をかけてはいけない論」だ。


先日、中央オーストラリアで出会った60代の方がいる。

たまたま食事が同席になったのだけど、「ひとに迷惑をかけてはいけない」論が出てきた。

そのひとは押し付けで説いてきたわけではないが、いろいろ話した後に「まぁ結局、人に迷惑をかけなければ何をしてもいいんだよ」ということを言っていた。

いいひとだったし仲良く食事もしたけど、僕は「またこのフレーズかぁ」と感じた。

そこに着地させなくてもいいのになぁと、もったいないなぁと思ってしまう。

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"ひとに迷惑をかけてはいけない"

僕はこの哲学を大人たちに説かれて育ってきた。彼らは「団塊世代のひと」であることが多かった。

昭和ヒト桁の焼け跡世代に育てられたひとたちだ。

軍国主義、ひいては富国強兵の「連帯責任」や、主義思想の制限が世代を超えて残留しているのだろうか。洗脳に近い。

僕が出会った数少ない60代のひとたちのほとんどが「迷惑をかけてはいけない」や「迷惑をかけなければいい」を唱えていた。


僕もそう信じて生きてきた。そう育てられたからだ。「ひとに迷惑をかけてはいけない」という言葉を疑いもしなかった。

だけど、独りで暮らしてからいろんなひとと出会って、いろんな物を読んだり聴いたりして、違う哲学に魅力を感じるようになった。


●ひとは生きている限り、迷惑をかけている。動植物の生命の上に立っているし、場所も取る

●ひとはひとに迷惑をかけて生きていかなければいけないのだから、ひとのことも受け入れていこう


というものだ。

BUMP OF CHICKENや中島みゆき、RADWIMPSにBEATLESやGREEN DAY、WEEZERが歌い、謳っているエッセンスだ。釈迦のスピリッツから来ているものだろう。


僕の書く歌も、それらに強いインスパイアを受けてきた。

「ひとに迷惑をかけてはいけない」という哲学を否定して、「迷惑をかけていくこと、かけられることを受け入れていこう」という哲学を肯定するテーマをよく書いてきた。

必ずアルバムごとに一曲は含んでいる。

幼少期から続くアンチテーゼなのかもしれない。「迷惑をかけないために生まれてきた」なんて空しいと思う。


僕もあなたも、生きていれば少しずつだけど、良くなる。

学生時代が最高なんてことはない。まだまだ良くなる。

いろんなひとの手を借りながら、ときに手を貸しながら良くなっていく。

愛情ってものの風通しが良くなると、ほとんどの物事が良くなる。愛したいものをスッと愛せると、あれもこれもクールに進む。



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今から帰る


句読点の無いメールを送って、電車に乗り込む。

車内はガラガラだったので、シルバーシートに横になった。視界がぐるぐる回る。

三ノ宮から十三まで普通電車だと40分ぐらいかかる。

帰巣本能だろうか。
これだけ頭が働かないのに電車にはちゃんと乗れる。


阪急はいくつもの橋を越えて、神戸から大阪まで走り続けた。西宮北口あたりまでは覚えていたが、そこらで眠ってしまった。


目が覚めると駅に着いていた。
朝日が閃光のように眩しくて、眉をしかめた。気がつくと車内の乗客が少し増えていた。

まだ飲もうと思った僕は西口から降りた。西口には朝からやっている店がいくつもあった。


改札の外に出ると、彼女は立っていた。

彼女はユリちゃんと言って、大学の同級生だった。

そういえば「今から帰る」とメールをしたのだった。完全に忘れていた。


「また馬鹿みたいに飲んでたの?」

「馬鹿じゃない。でも飲んではいた」

「まだ飲むつもりだったでしょ」

「そんなこと、ない」

「じゃあなんで西口から出てきたの?」

「飲もうと思って」

「馬鹿みたい」


僕とユリちゃんは学部も学科だけでなく、下宿先の駅も一緒だった。さらに好きな本や音楽も似ていた。でも、それだけじゃなく、なんていうか、"波長"みたいなものが合った。

僕たちは付き合っているわけでもなかった。

第一、彼女には年上の恋人がいた。BMWを乗り回す28歳の恋人らしかった。

それなのに、僕たちはほとんど毎日一緒にいた。

彼女は東京からわざわざ大阪の大学に受験をして、一人で暮らしていた。

東京には学校もたくさんあるのに、なんで大阪なんかに来たのだろうと思っていた。ユリちゃん自身にも、それを聞いたことがある。

「大阪に憧れがあったの」

まるで大阪がニューヨークやメルボルン、パリやロンドンであるかのように彼女は答えた。関西人からしたら、異質な感性だった。


改札を出ると、サラリーマンと酔っ払いとホームレスと学生が入り乱れていた。この駅はいつもそうだった。いろんなひとが、それぞれの場所へ歩いている。

僕はユリちゃんの目もあって、続けて飲むのを諦めた。大人しく帰るのも、それはそれで良かった。

二人で西口から高架下を通って、東口を目指す。カラスがゴミを漁りまくっている。


「お酒が好きなのは分かるけど、なんでそんなに飲むの?」

正面を向きながら、ユリちゃんが口を開いた。

「別に好きじゃないけど、楽やから」

「苦しそうじゃん」

「見た目にはそう見えるけど、楽やねん」

「馬鹿みたい」


関西のひとは"アホ"とは言うけど、あまり"馬鹿"とは言わない。
僕は彼女から一生分の"馬鹿"を浴びた気がする。

家まで着いて、彼女は「それじゃ」と言って、自分の家に帰っていった。

朝の6時にわざわざ迎えに来させて、駅から徒歩5分に付き合わせたのは、一度や二度じゃなかった。

なんで恋人がいるのに、僕にかまってくれるのかがまったく分からなかった。彼女に聞いても「別に、それはそれだから」としか答えなかった。

だけど僕はそんな彼女の意味不明さが好きだった。僕は彼女から、世の中の決まりやルールの外にいるような強さを感じていた。

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家で何もせずに、お湯を飲みながらモーモールルギャバンを聴いていた日のことだった。

僕はその日、いけるんじゃないかと思って、彼女の身体を触ろうとした。するとずいぶん強く手を叩かれた。

彼女は低い声で「ふざけないで」と言った。

彼女はそれでも僕の家にいた。

それから僕は彼女を女として見ないように思い込んだ。実際そうなっていったけど、僕は心のどこかで彼女のことが好きなままだった。


よく「男女の友情は成立するのか?」というクエスチョンがある。

この答えは未だに出ていない。

分からないけど、あの頃の僕とユリちゃんの関係は、それだったのではないだろうか。

僕はユリちゃんのことが好きだったけど、それでもあの手触りは「友情」だったようにも思える。というより、そこにしか着地できないような関係性だった。

でもアレは紛れも無く「友情」だった。それでいいと思う。世の中には、正解なんかより大事なことがいくつもある。彼女は今何をしているのだろうか。


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「自分で決めること」ことと「自分で決めないこと」がある。

許容の振り幅が狭いときは、自分で決める。
細部の差異が許容できないからだし、細部に魂が宿ると信じているからだ。

反対に許容の振り幅が広いときは、他者が決めてもいい。
細部の差異によって、本質が揺るがないと考えているからだ。


合理的に考えれば、許容の幅が狭いことは自分が決めて、広いことは他人に任せるといい。

これまでもそうしてきているし、きっと大きくは変わらないようにも思う。


では、試しにこれを逆にしてみたらどうだろうか。


許容の振り幅が狭いことだからこそ、他人に任せてみる。
広いことだからこそ、あえて自分で決めてみる。

どうなるかということは分からない。
だけど、なんとなく新しいものが生まれるような気がしてこないだろうか。


少なくとも「許容の振り幅が狭いひと」は物事に接近しすぎていて、考えが固執している節がある。
「こだわり」というものが、悪く作用してしまうときはたしかにある。

入れ込み方のバランスだったり、ピントの調節みたいなものになるんじゃないだろうか。


許容の振り幅が広いことを決めるのにも、ヒントが眠っていそうだ。

「わりとどんなものでもいいや」と思えるもののなかから、あえてひとつを選ぶ。

「絶対にコレじゃなきゃいけない」という次元の選び方とは、まるで違う選択の価値観に出会えそうだ。

そんなところに、発見が隠れているかもしれない。低い熱量が、じつは適温だったというときはある。
実際、少し引いてみると全体像が見えるのは比喩でも何でもない。


「自分でやらなきゃ気が済まない」も「どっちでも構わない」もたまに動かして、流れを変えてみるのもいいかもなぁと思う。



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いろいろと片付けてから旅に出たつもりが、出ている最中に色々溜まっていた。片しまくっていた。


それにしてもこんなに長い期間、ギターに触らないのは初めてだったんじゃないだろうか。歌も歌っていないし、何も書いてもいない。徹底してアウトプットしていない一週間だった。


旅に出ると、普段触りまくってたものが触れなくなったり、普段通じているものが通じなくなったり、普段手に入るものが手に入らなくなったりする。


「有り難みが分かる」なんてショボい表現に濃縮したくないが、実際、肌で味わうとまた「有り難み」のリアリティは違ったりする。

反対に本当は普段わずらわしかったことに気付いたりもする。

わずらわしくないフリをしていたり、麻痺していたことを、旅という非日常が浮き彫りにしてくれる。

心の底でじつは嫌がっていたことに、気がつかないことはある。
気付くとその問題を打ち倒せるが、気付かないと、知らず知らずのうちにむしばまれる。

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様々な生き方ややり方が、じつは許されていたことも知る。
 
ネット抜きで暮らす方法もあれば、無所属で暮らす方法もあることも、地球の裏側で生きることすらできることを知る。

それが「できる」ことは知っていても、実際に自分の人生にトレースしている人間と話すと、インパクトがある。

僕たちが普段立っている場所は、選択肢が無くて、しかたなく立っているのではない。

じつは「あえて選んで立っている」ことを改めて知る。

僕たちの現在地のほとんどが「別にそうやって生きなくてもいい場所」だったりする。


音楽を作っている僕も、正社員なあなたも、自営業なあなたも、専業主婦なあなたも、学生のあなたも、じつはたくさんの選択肢のなかから、あえてソレを選んで生きているだけだ。

僕も音楽をやる必要もないし、やらなきゃいけないわけでもない。絶対に就職しなきゃいけないわけでもないし、進学しなきゃいけないわけでもない。


僕の場合だけど、音楽が一番しっくり来るし、好きだからやっているだけど。選んでやっている。


嫌なら辞めちまうのがいいと思う。なにごともだ。全然ネガティブな話ではない。
もっとやりたいことがあるのなら、そっちに進むのが吉だ。


旅をすると、一気に大量の知らない情報が潜在意識に流れこむ。脳が凄く疲れる。
リンゴぐらいしかまともな味をしたものが無かった。リンゴはもういい。

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ワンマンだって、あえてやるのだ。

やらなきゃいけないわけではない。別にやらなくても、誰から怒られるわけでもない。
やりたいからやる。

CDのリリースでもツアーでもないワンマン。
曲を選ぶうえで、すべてのアルバム、シングルから選べる自由度の高いワンマンがやりたかった。それが「QOOLANDのワンマン」だ。

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ここ2週間ぐらい、年下のひとと話す機会が多い。

ライブハウスブッキングの日に、飛び入りでゲリラライブをしているせいだろうか。

いや、それ以外にも最近多いのだ。



じつは、年下から教わることは多い。

思考停止してしまった年上よりも、歩みを止めていない年下の方が、はるかにインスパイアする力が強い。


直接具体的に指導をされるわけではないのだが、年下を見て勝手に勉強している。

「勉強」と書くと、表現に語弊がありそうだけど、年下と話していると「おぉー」と心が動くことばかりだ。

何かを聞かれることは多い。
会話の対象が年下だと、どうしてもアドバイスを求められる。

だけど答えるときも、答えながら自分で改めて納得していたり、聞いてくる内容にしっかり答えられなくて、少し反省したりしている。

気の利いたことがポンポン言えるほど、語彙も無いなぁなどと反省ばかりしている気がする。



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むかし、嫌な先輩が嫌いだったことを思い出したりしていた。

「ああはなりたくない」と思っている。凄く好きな先輩もいた。「ああなりたい」と思う。


かっこいい先輩はみんな優しくて、温かかった。

かわいくない年下である僕が感銘を受けた先輩たちは、凄い人間力を持っていた。

どこからどう見てもかわいくない年下だったなぁと思う(たぶん今も)。


でも先輩たちは、そんな僕に対して優しくしてくれた。あの器、スケールの大きさは「かっこいいひと」特有のものだった。



「年下によく思われたい」とかではないのだけど、「話して良かったな」ぐらいは思ってくれたら嬉しい。

自分と話した後に、相手が元気になったら嬉しいのはみんな同じか。そっちの方がかっこいいしなぁ。




いろんな自分がいると思う。
「二面性」なんて言葉があるが、そもそも人間は多面性なのではないだろうか。

  • 働いているときの自分
  • 家族といるときの自分
  • 友達といるときの自分
  • 好きなひとといるときの自分
  • 嫌いなひとといるときの自分
いろんな自分だらけだ。
もはや「本当のわたし」ってどこにいるの!と発狂してしまいそうになる。


そんなとき、知り合いから教えてもらったのだが「分人」という概念がある。

「個人」をさらに細かく見る考え方だ。


【一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。
コミュニケーションは他者との共同作業であるから、会話の内容や口調、気分など、すべては相互作用の中で決定されてゆく】

という考え方だ。
「オッケー分かった」となる。全然納得した。


つまり「本当の自分」ってなんだろう。と悩むひとがいるけど、どれもこれも全部「本当の自分」だということになる。

そう、どれも本当の自分なのだ。

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そのなかで自分は、誰と過ごす時間を多く持つべきか。誰と一緒にいる時の自分を、今の自分の基礎にすべきか。ということを考えてみるといい。

「自分を愛するためには、他者の存在が不可欠だ」ということだ。

そしてその逆説こそが、分人主義の自己肯定の最も重要な点だ。

環境を選ぶんじゃなくて、そこにいる「分人」を、つまり「そのときの自分」を客観的に見ていくといいという。

すると複数の分人がいることがわかる。

たとえば、ウソップとかクリリンは結構、対象の相手によって、人格がコロコロ変わる。分人のキャラクターが多彩なのだ。

だけど比べられるサンプルがあるからこそ、自分の分人キャラを考察できる。

どの「自分」が一番好きなのか分かるのは、比べられるからだ。いくつかの自分がいないと、好みすら分からない。

そして、愛ってのは「その人といるときの自分の分人が好き」という状態にあたる。

「このときの自分が好き」って少なからず無いだろうか。


僕はステージに立っているときの、自分の分人が好きかなぁ。と思った。

コミュニケーションは、ちゃんとある。前にも後ろにも横にもある。ペラペラ喋りまくるわけでもないが、ある。


ここを読んでくれているあなたは、誰と接しているときの自分が一番好きだろうか。

大事なひとが見えたり、大事な人に対する接し方を見直すのは悪くないんじゃないだろうか。


関係ないけど、いつもリツイートとかしてくれてありがとう。
僕の考えていることや、やっていることに少なからず肯定的な気持ちを持ってくれているひとも一定数いるのだと思うと、改めてありがたい。
  
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ドラゴンボールにはよくよく「心をからっぽにする」ということが描かれていた。

主題歌では「頭からっぽの方が夢詰め込める」と歌われていた。
無我の境地を大切にしていたドラゴンボールらしい歌詞だ。

鳥山先生は「からっぽの作業」をいつも重要なポイントで描写していた。


悟空がピッコロ大魔王を倒した後に「自分は敵無しだ」と傲り高ぶったことがある。

その後、雑念が多すぎるということで、修行に瞑想を取り入れた。


その後も悟空はポイントごとに「心をからっぽ」にしていた。

超サイヤ人の壁を超える前や、あの世から帰ってくるときなど、瞑想しているコマは本当に多い。

るろうに剣心の蒼紫やダイ大のポップ。矢吹丈や星飛雄馬。

なんだかんだ「心をからっぽにする」という作業は様々なフィクションで、細かく登場している。

では実世界ではどうだろう。


Google社、インテル社、ゴルードマンサックス、アドビ、ペンタゴン(国防総省)、楽天、ナイキ、TOYOTAなんかの企業研修では瞑想がカリキュラムとして取り入れられている。

スポーツ界でも基本的なものになってきている。

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「心を空っぽにする」作業には、究極のリラックス状態に入り、脳の疲労が解消されるという効果がある。脳内の情報が整理される。脳内クリーニングだ。


企業の研修プログラムでは「宗教色を一切排除した形の瞑想」として展開されている。

あくまでも瞑想は睡眠と同等の「脳のメンテナンス作業」であることを徹底している。

 

僕たちはふつうに生きているだけで、情報過多で強いストレスにさらされている。

そんなカオスな状態にあるため、定期的にクリーニングする必要がある。 



カオスな状態は、例えるならハードディスク上にゴミが大量に存在しているパソコンと同じだ。


容量を圧迫した結果、パソコンの動きが鈍くなる。


逆に新しいパソコンを買い換えた直後は凄くスピードが速い。


あれは「余分なゴミが一切ない」状態だからパソコンが全力で、思う存分フル稼働できているのだ。



人間も同じで、整理されずに余分な情報ばかりが滞留すると、司令塔(脳)が混乱をきたし、パフォーマンスは劣化する。 


判断があまくなったり、テンションが下がりやすくなったり、イラつきやすくなったりする。

「ストレスを消す」というものの恩恵は、とてもデカイ。



僕も心をからっぽにする時間を設けるようにしている。方法がいくつかある。このブログだってそのひとつだ。ひとつ記事を書くと心がからっぽになる。


でも僕のやり方はけっこう普通だと思う。それよりも友人たちの方が面白い。



友人Aは定期的にネギを延々と切り刻む。

友人Bはひたすら歩き続ける。 

友人Cはひたすら何かを数え続ける。

友人Dはカレーを作って、ひたすらかき混ぜ続けている。



気が狂ったようにも感じるけど、単純作業をずっと繰り返すのは実際に、瞑想と同じ効果が得られる。

方法はなんであれ、心がからっぽになる時間があればいいのだろう。
神代ユウはジャブを何千回も振り続けて、数え続けた。

禅が「静の瞑想」にあたるなら、上記のやり方は「動の瞑想」にあたる。

ランニングやなにかの素振り、筋トレも同じようなものだろう。


気が滅入ったとき、ゆっくりすぎるぐらいのスピードで20分以上走るだけでもずいぶんとスッとしたりする。

5分間、目をつぶって、呼吸に集中しまくるだけでもかなり違う。

時差で投稿時間があってるのか不安。


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浅田真央さんが2010年のバンクーバーオリンピックのとき、演技前のインタビューで「自信ありますか?」と聞かれていた。

彼女の答えは「練習は、してきました」というものだった。

引退のニュースを聞いて、僕が思い出したのはそのことだった。


本番がどうあっても、結果がどうあっても、そこにたどり着くまでの練習やリハーサルがすべてで「やれることはやった」と胸を張ってコメントができるスピリッツに「かっこいい」なぁと、当時の僕は感じていた。


「勝負は時の運」という言葉がある。
アレの本質はそういうことなんじゃないだろうか。

運だから過程がどうでもいいということではなくて、きっと浅田真央の「練習は、してきました」なのだ。


「結果や評価も後からついてくるもの」だということは、みんな分かっている。

だけど、本当にその通りに生きられるかどうかは別の問題だ。

結果や評価を追いまくるひとがダサいという話ではない。美意識、美的感覚の話だ。やる前に結果を追いまくるのも、それもアリだ。

でも臆病になるのはもったいない。「結果を出さなきゃいけない」って少し、苦しい。

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僕の美意識は浅田真央さんのやり方がかっこいいと感じたようだった。

結果に対してのコメントをせず、過程の破壊力がすべてだと告げた彼女に、脳天を貫かれたような気持ちだった。

彼女がメダルを取ろうが取るまいが、僕のなかでは関係なかった。


できれば、僕も「結果や評価は後からついてくるもの」と考えて、それらしく生きていきたい。

その方がかっこいいと感じているわけだし、そもそもできることってそれしかないとも思っている。

僕たち人間は、結果をコントロールできないからだ。

目の前にあるものを大切にしながら、今の具合を問いかけ続けることと、進み続けることしかできない。

「今の自分、かっこいいかなぁ?」とたまに問いかけとくのは、わりと大事なんじゃないだろうか。

Noなら少し修正して、少しでもYesに近づいていけばいい。やっぱ人間、キレ散らかしてるときとかふてくされてるときが、一番ダサいなぁと思う。


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ステージに立つ前には、「キレ上がった演奏をして、歌を叩き付けたいなぁ」と思っている。

でもステージに立ったら、そんなことは頭から消え失せている。

何も考えていない。

なんていうか、歌っているし弾いているあいだって、無我夢中というか「無心」に近い気がするのだ。


もちろん完全に無心では無いと思う。
歌詞もメロディもギターも頭に入っているからこそ、プレイできるのだから。


でもプレイを「考えて」やってはいない。
身体が覚えているという感覚が近いのかもしれない。

いちいち考えたりせずに勝手に動く。歩行や呼吸に近い。

後はひたすらリズムに声を叩き付けていく。
ギターを右手で鳴らして、音を放り込んでいく。

それを思い切りやる。

こんなことが命をかけるぐらい面白かったりするのだ。改めて文字に起こすと不思議な話だ。

13

夢を現実にする。

というとかっこよすぎるけど、ロックバンドにとって、そのツールはライブだと思う(であることが多い)。


ステージにはここまでの人生の積み重ねが如実に表れる。楽器を弾いていない時間のこともじゃないだろうか。そして、その大気を少し隔てた場所にいるお客さんたちには、明確に届く。

したいことをやりながら、幾度も不安や寂しさにうちひしがれつつ、ただ一歩ずつやっていくことなのだと思う。それしかない。

僕もそうだし、あなただってそうだ。
不安や寂しさにうちひしがれつつ、ただ歩いていくだけだ。そうやって発展して、死んでいく。

歩みを止めさえしなければ、刺すような寂しさを胸にどこにだって行ける。

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知識に経験が加わって、はじめて、物事はできるようになる。
それまでは単に「知ってる」に過ぎなかったりする。


知識編重時代の到来で、「知ってればできる」と思うひとも増えてきたようだけど、やはり「できる」と「知ってる」との間には、マリアナ海溝ぐらい深くて大きな溝がある。

それを埋めるのが、現場での実践だったりする。


スタジオでドライブ感のある演奏ができても、ステージとでは、また違ったりする。

バッティングセンターでヒーローでも、いざ打席に立って、試合になると打てなくなったりする。

こういったことは、どんな世界にでもある。

知識と実践のズレの話だ。
やはり「現場での実践」というものに勝るものはないのだろうか。

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かと言って、「知ってる」が無いと難しいなぁとも感じる。

「できる」は大抵「知ってる」のうえに乗っかるからだ。


「教養として、知識として備わっている状態」は何も悪いことじゃない。

「何事も経験だよ」という言葉は真理なのだけど、経験した後に自分の力にできるかは、それまでのクオリティにかかっている。

世の中にあるものは、失敗や経験から学び取って、強くなっていくものが多い。

しかし、学び取るレベルみたいなものがある。
同じことを経験しても、少ししか学び取れないひともいれば、多く学び取るひともいる。    


それまでに予習をしておくかどうかで、理解力がまるで変わってくるからだろうか。


実践の舞台に立つと「そんなはずじゃ」ということが起きる。

そもそも予測や事前知識があるから「そんなはずじゃ」が発生するわけだ。

ここでようやく、知識と実践のギャップに気が付くようになる。これを埋めていけば、鋭く「できる」に近づいていく。


「できる」ようになりたいことがあるのだけど、難しい。
少しずつでも進んでいるのだろうか。

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