むかしは家柄の時代だったらしい。
ジツリキが無くても、殿さまの家に生まれたら殿さまになれた。

終わり次第、学歴の時代が来て、殺し合いの時代が来て、魅力の時代が来た。

なんかで聞いたのだけど、そういうふうに解釈している方がいるらしい。

魅力の時代は魅力を付けるとうまくいくんだそう。

魅力的なひとと魅力的でないひとは、たしかにいると思う。

そうは言っても他人が気になりだしたらヒマな証拠だ。だから自分から見て、自分がイケていたらいいヨということにしておきたい。


しかし"魅力"と一口に言ってもいろいろある。

話す内容が魅力的なひともいれば、人柄が魅力的なひともいる。男は美人が好きだし、女の子たちはイケメン君が好きだ。

だけど忘れがちで、大切な素養がある。

It is「ひととの距離の取り方」だ。

ヘタすりゃ一番大事なのではないだろうか。

いわゆる「おかしいひと」の「おかしさ」というのは、ひととの距離の取り方がおかしい。100パーセントおかしい。


あなたにも心当たりがあると思う。
親子や恋人、親しい関係ほどおかしくなる。


僕たちが誰かを責めているとき、他者に対する過剰な同一視が起きている。
そして、それによる対人距離の欠損が起きている。つまり「自分と他人は違って当然」という前提が消え失せるのだ。


あまりの同化で対象との距離が無くなりすぎると、相手のこころが自分のこころの延長のような幻想を知らず知らずのうちに抱く。


それが自分の思うように変わらないものだから、ストレスや苛立ちや怒りが生まれる。


非生産的な言動には拍車がかかるし、受け手には相手のそうした思いが直感的に伝わるので、さらに防衛的になる。悪循環は続いていくし、解散するし離婚するし絶縁に向かう。

「距離感」がしっかり見えているひとは、本当魅力的だ。

僕もあなたも、飛んでくる嫌なことに一憂している場合ではない。ただでさえこんなに晴れていてあったかいのに。

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またまた「自信を持て」というアドバイスをされているひとがいた。

何度聞いてもこれはキツイ。


自信なんて曖昧なものはどこにも転がっていないし、「分かりました持ちます」と言っても持てない。当然『自信』はAmazonでも取り扱っていない。

何が難しいかと言うと、そもそもそのアドバイスを放り込んだひとの指す"自信"がいったい何なのか分からないことだろう。

かと言って、良かれと思ってのアドバイスなのだろう。善意が悪意を上回る殺傷力を持つこともあるなぁと思うのだけど、せっかくなので糧にしたい。
「これにいい解釈が付けれたらなぁ」と無関係ながら、やんわりながら思うのだ。


さてどうやって噛み砕こう。
"自信"という熟語を分解すると、「自分を信じる」という短いセンテンスになる。

少し分かるようになったけど、もっと変形させてみる。

では「自分を舐めないで」というのはどうだろう。"自舐否"なんて言葉はないけど、わりと的を射ているのではないだろうか。
 
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人間、いつもいつでも自分を信じることなんてできない。

そりゃあ本当は信じたいし、疑いたくない。だけど、まわりにガチャガチャ言われたら迷うし、ブレるし、壊れる。

ビートルズだって、イチローだって矢吹丈だってそうなのだ。じつはブレているのだ。


そのなかで、自分の心が着地できる言葉や考え方を持っているだけでずいぶん違う。 彼らはなんとかそれを見つけてやっている。

礼拝として筋トレをするのもいいし、瞑想として走るのもいいし、教典として本を読むのもいい。

ブレたスピリッツをまたニュートラルな位置に戻しながら、少しずつ進んで行く。

「自分を舐めないで」という感じ方はそういうことかもしれない。自然治癒力がひとにはあるということだ。

人間だから迷うけど、人間だからこそ、治せもする。

悪い状態はいつまでも続かないようにできている。僕もあなたも意外とタフなのだ。自分をあまり舐めないでもらいたい。



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「理解できたことだけを書く」ということを先日ちょろっと書いた。

これはブログでもそうだし、歌詞でもそうだし、Twitterのつぶやきでもそうだ。



ライターさんは取材をして、記事にする。

僕はもう生きている内容すべてが取材になっていて、それを歌詞にする。



このときに、見聞きした全てを書くのではなくて、「理解できたこと」だけを書くようにしている。

このジャッジで選定すると、意外にも少ないことに気付く。

わからないものは、腑に落ちるまで思索を繰り返す。いろいろなものを書きたいから、理解を深めたいと思っている。


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こうする大きな理由がひとつある。

「見聞きして感動したもの」と「理解できたもの」はかなり異なるからだ。
「理解した」というレベルと「見聞きした」というレベルには大きな溝がある。

「見聞きして、心を打たれた」というものはどんどん書けるし、書いていて楽しい。

だけど、なんだか伝わらないものになる。

理解をおろそかにして、感動で爆走した作品はうまく着地しない。好き勝手やるのが悪いわけではないのだが、ただ自己表現というレベルには達しないものになるときがある。



「すげーわかる!」と心を打たれただけのものは、実際はまだまだ大抵わかっていなかったり、少なくともそれを言語にできるような視点までカメラが引けていないケースが多い。



逆に言えば、「感動しないもの」であっても、「理解できたもの」に関してはそこから何かを学びとることもできるし、切り取ることもできる。別の形状にして、「これなら感動する」と自分が納得したものに仕上げさえできる。



そして怖いのが、「理解していないけど書きたいもの」ばかり書いていくと、「自分の枠」を狭めてしまうときがあることだ。

「自分の枠」の外にこそ、じつは面白いものがあったりする。

それらと手をつないでいくのが、「理解」だし、「論理」だったりする。「ノリ」でごまかして思考停止するのは「書く」という表現とやけに相性が悪い。

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半年経っても、僕はあのひとから教わった飲み方をやめられなかった。
睡眠剤を半分に割って、ビールで流しこむやり方だ。

「こうしたら余計なこと考えなくてすむやろ」とあのひとが言っていたことを、思い出す。そしてそれすら思い出せなくなるまで、ひたすら飲み続ける。

思考をボカしたいから酒を飲む。
ならば、何かしらの薬と酒を混ぜて服用するのは、手っ取り早いように思えた。


しかし、薬には耐性があるらしく、次第に半分では効かなくなっていた。


飲むのは4錠か5錠がちょうどよかった。

10錠飲むと記憶を無くした。気がつくと辞めたバイト先に戻ることになっていて、神崎川のほとりに僕の自転車があった。

もし100錠飲んだら、気がついたらTOYOTAの重役にでもなって、ニューヨークで目が覚めてしまうんじゃないだろうかと思った。それか、死ぬかだ。


その日もボケた頭で外に出た。
めずらしく午前中から外に出ることができたので、自分を表彰するほど褒めてやりたかった。


ゆるくなった頭で見る世界は実際のカタチと少し違っていた。青色が黄緑に見えるほどではなかったが、直線が曲線に見えるぐらいにはなっていた。
だけど、実際からどれぐらい遠ざかれば、適量なのか僕にはまったく分からなかった。


あのひとがいなくなって、僕はいつまで経っても寂しかった。
彼女は結婚していたけど、それでもいいから一緒にいてほしかった。いなくなって分かったが、僕のなかでとても大きなウェイトを占めていた。
 
時間が経つにつれて、どんどん寂しさが大きくなった。理解者のいない孤独は、刺すように鋭くて、この世の終わりみたいだった。


僕は歩けなくなって、商店街の隅にしゃがみ込んだ。しばらくそうしていた。気分が吹き飛ぶまで、膝のあいだに顔をうずめていようと思った。そんなことはめずらしくもなんともなかった。毎日がこうだったからだ。

道にしゃがみ込んでいる人間が少なくない町のせいだろうか。誰も僕を気に留めていないように感じた。


こうして、かわいそうぶって倒れていたら、何回かに一回は誰かが話しかけてくれた。いきなり恐喝をくらいもしたが、それでも恩恵の方が多かった。気がつくと僕は本当に駄目になっていた。すっかり、ひとの同情を買って生きていくやり方が染み付いていた。

 
どれぐらいの時間そうしていたのか検討もつかない。気がつくと、あたりは暗くなっていた。
遠くでまたサイレンが鳴っていた。建物と月面に音が反射して、不揃いな楽隊みたいだった。


サイレンの中にカツカツという音が混じりだした。靴が地面を叩く音だった。
音がアーケードの天井に跳ね返る。

「嗚呼また、誰か来る。金持ちだったらいいなぁ」と思った。


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「大丈夫?」

聞いたことある声だった。

見上げると、あのひとだった。ドラマかマンガではもっと劇的に再会するのだろうけど、現実はあっけない。もう会えないと思っていたひととの再会でさえ、そんなものなのかもしれない。


「なにしてんの?」

「いや、べつに・・・・・・」

僕は動転して、何を言えばいいのかわからなかった。


「ビール飲む?」

「飲む・・・・・・」


しばらく待つと、彼女がラガーのロング缶を何本も買ってきた。
よいしょ、と言って、彼女が隣りに座った。

商店街には誰もいなかった。遠くでいろんな音がする。でも、それは遠い世界の出来事のようだった。


「こうして見ると、街も綺麗に見えるね」

「なにも、無いですよ」

「誰も見えないのに、遠くに誰かおるとか綺麗じゃない?」

「それは、そんな気がします」


彼女の声を聞きながら、僕は声を押し殺して泣いた。かっこわるくて、また膝のあいだに頭を押し込んだ。彼女はケラケラ笑って頭を撫でたが、それがもっと嫌で僕は手を払った。


「ちゃんと立って、歩いて、ごはん食べて、やってかなあかんねんで。死んじゃうまでは」

右耳にそんな言葉が飛び込んできた。

「じゃあ、もう行くね。またね」

僕は何も聞こえないフリをして、膝のあいだから頭を抜けなかった。そして、隣りから彼女の気配が消えた。

あの「またね」が今も忘れられない。「永遠にさようなら」と違いの無い「またね」だった。それでも「またね」と言って、消えていく彼女がかっこよかった。


人生には本当のことなんて必要がないときがある。
そんな不必要なものが、人間ひとりを蘇らさせるときだってある。


僕はあの夜からちゃんと立って、歩いて、ごはんを食べて、やっていくことを、少しずつ始めてみた。 


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さてさてゴールデンウィークだ。

とは言え、平日や土日に関係のある人生をやっていないので、僕にはいっさい関係が無い。


それでも、とにかくカミングコーベがある。
我が地元神戸の誇るべきチャリティーだ。

毎年出させてもらっている。
僕の人生のゴールデンウィークは、カミングコーベを中心に動いていると言っても過言ではない。


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去年のステージではステージの左側に立って歌っていた。

あれから一年経つ。
松原さんは生きているし、僕も生きている。

あれから一年・・・と思うと、この一年は本当に濃かった気がする。

長かったかどうかは分からないけど、変わったように思う。もうあの頃と比べると、自分のなかのいろいろなものが、変形している気がする。

証拠に一年前の自分がずいぶんショボく見える。いいことだと思う。

4月が焼けるように終わろうとしている。
僕たちは新しい歌の制作にも入っているし、ライブは鬼のように増やしている。

「制作期間」なるものが無い。
ライブをやらないと、ヤヴァくなるので。


高校生とか大学生とかとも対バンしたいなぁと思う。

僕たちと対バンしたいひとがもしここの読者にいたのならqooland.staff@gmail.comまで連絡4649。
このアドレス、スタッフとか書いてるけど、普通に僕もみんなも読む。

軽音楽部のイベントとかにも出たい。
たくさん演りたい。


好きなひとが言っていた言葉が頭をよぎる。

ひとと会っても、喋っても、酒を飲んでも、何を聴いても読んでも、埋められない寂しさがある。
そんな寂しさがあるからこそ、僕たちは書いて、歌って、弾くのだろう。誰もいないかもしれない広場の真ん中で。


暑くなるまで、一回でも多くステージに立ちたい。いや、別に暑くなっても同じか。

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これから先「将来どうなりたい?」なんて話をすることが何度あるだろうか。


あの頃は、それを毎日していたように思う。

僕たちは明日の予定は無いのに、「あしたのジョー」に出てきた意味合い“あした"なら自分たちにもあると信じていた。


横丁のあの店の、あの時間帯はいつも「将来どうなりたい?」で埋まっていた。

0時まではサラリーマンや学生を始めとする人々が店をにぎやかす。
だけど日付けをまたぐと、店は次第に静かになっていく。一人、また一人と店から人が去っていった。
“あした”のある人々は店を出て“あした”の無い人々は店に残り続けた。
午前4時頃になると、"あした"なんて到底見えない人間たちの掃き溜めみたいになった。


元殺人犯や学校に行っていない15歳、アル中の40歳が肩を寄せ合っていた。そのなかに僕もいた。
バラバラの席に座っていた僕たちが同じテーブルを囲むまでに、そう時間はかからなかった。
「類は友を呼ぶ」と言うが、同じレベルの人間は身を寄せ合うらしい。居心地がいいからだろうか。


あの頃、世の中では「意識高い系」という言葉が流行りだしていた。
mixiやAmebaという小さな世界のなかで、自分を装飾する行為が始まりだしていた。

僕たちは「意識低い系」どころか、「意識無い系」だった。
日々の積み重ねも何も無く、だけど先に何かがあるんじゃないかとだけ思っていた。

その年の流行語大賞である「格差社会」は数ヶ月後に発表される。

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「将来、俺は淀川の添いのマンションに、住む!」

元殺人犯はいつもそう言っていた。

淀川の添いのマンションは億ションで、株やFXのトレーダーがいっぱい住んでいるらしかった。

「私は絶対愛される!」

高校を1ヶ月で中退した彼女は日本酒を5合も6合も開けて、毎日くだを巻いていた。
彼女の話題は「愛されたい」と養父の悪口だけだった。

アル中の40歳はもう何を言っているのか分からなかった。「幸せになりたい」とだけ言い続けていた。


僕はずっと「まともになりたくない」と言っていた。僕も毎日、日本酒を限界まで飲んでいた。

なぜ僕は「まともになりたくない」とばかり言っていたのだろう。あの「まとも」が何だったのかは思い出せない。

思い出せないけど、たぶん僕はもっと自由になりたかったのだと思う。

なんとなく気付いていた。
何も考えずに生きていけば、そのまま流されてそのまま働いて、そのまま死んでいくことを。それが一番ロクでもない死に様だと信じ込んでいた。


まともなひとから見ると、「将来どうなりたい?」と連打していた僕たちは、むしろ世の中から「将来どうするつもり?」と聞かれてしまうような存在だった。


でも、あの「将来どうするつもり?」が固まった時間は宝だった気がする。

あの鬱屈していた時間が僕を作って、僕が作ったものが、今ステージで発火している。

何の生産性も無い日々が、後々、人生のなかでわりとかけがえの無いものになったりする。
こんなどうしようもない連中と、どうしようもない時間を過ごすことが、二度と手に入らないものだったりする。

2014年3月。あの店は焼け落ちてしまった。
彼らの将来はどうなったのだろうか。



同じものを見てもひとによって感想は違う。
観測者次第で、現象の意味合いはまったく異なる。

太陽がカンカン照りの日に「いい天気!洗濯物も乾きまくる!」と解釈するか、「外出たら日焼けするじゃん。ちょっと曇ってくんないかな」と解釈するひともいる。


足りていない部分を見つけて不満を持つひともいれば、ただひとつの魅力に焦点を当てて愛せるひともいる。


期待している行動を強調しすぎると、それ以外の行動に気付けない誤差が発生する。「観察者バイアス」というのだが、誰しもに起こる。

どうせ発生するなら、いいバイアスがかかるといいと思う。人間は自分の見たいものしか見れないようにできているのだから。

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という質問が来た。

僕は「失敗はある。人間だもの」という回答をした。

僕が高校生のときに世話になっていたライブハウスの店長に殴られそうな回答だ。

「押してもいい」というわけではない。でも押すひとを責める気にもなれない。 


世の中には様々な「万死に値すること」がある。音楽の世界にもやたらとある。むしろ山ほどある。


時間を押さない、余計な音を出さない、挨拶をしなきゃいけない、楽屋は綺麗に使わなきゃいけない、店長のアドバイスを聞かなきゃいけない、前を向いて歌わないといけない、練習をしてこないといけない、プロである自覚を持たなきゃいけない、ステージで酒をこぼしちゃいけない、マイクを叩きつけちゃいけない、対バンを見なきゃいけない、一生懸命やらなきゃいけない、お客さんのことを考えないといけない、課題に取り組んで達成しなきゃいけない。



「なんだかガチャガチャうるせぇ」と思うのは僕だけだろうか。

念のため書くけど、違反や怠慢を推奨しているわけではない。


でも「守った方が良くなるから」と「守らないと怒られるから」を履き違えすぎると、何事もおかしくならないだろうか。

おかしくなりすぎて「守ってないひとを怒れる武器」にまで変形させているケースまである。


ルールや規則やマナーは大切なものだ。

みんなが楽しくなるために用意された画期的な発明だ。成り立ちはあくまでコレだ。

そこから逸脱した者を罰するために生まれたわけでもない。
新撰組の局中法度は死罪を利用した内政掌握の手段として生まれたが、彼らは結局、自分たちの首を絞めることになった。


人間、良いことも悪いこともやったことは自分に返ってくる。
だからわざわざ罰を与えなくてもいい。

制裁はちゃんと回り回って、そのひとに下る。

飲みすぎたらちゃんと二日酔いになるし、イライラしていたら友達もいなくなる。

調子こいてたらそれ相応のことは、作用反作用の法則で返ってくる。 

僕も下りまくってきている。
京都MOJOでマイクスタンドをへし折って弁償したこともあるし、千葉lookで時間オーバーして怒られたこともある。下るたびに猿のように反省し、豚のように泣いて、少しずつ修正してきた。


「牛丼に髪の毛が入っていても、文句言わずに髪の毛ごと食ってやれ」ということではないが、観測の質を上げるために、目くじらの角度を軽く戻すのもいいんじゃないかと思う日がある。

「もっとちゃんとしなきゃだめだよ!」と言われまくったときに、僕の場合は何ひとつちゃんとならなかった。



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二日連続でゲリラライブでした。渋谷で。
会えたひとたちありがとう。

さて、連日のタフスケジュールがいったん終了。行程がタフだとテンションが上がる。不思議。


連載してるホンシェルジュも更新。



本日のブログは"会議"について。about大人数での話し合い。


僕の暮らしに、会議の機会は意外と少ない。

むしろ会社組織のなかで働いたり、サークルや部活なんかで活動している人の方が、僕なんかより、その機会は多いんじゃないだろうか。

もちろん数は少なくても、ゼロではない。

話し合いをして何かを生み出していく場面は、僕の人生にも何度か登場した。


この「会議」というものが好きか嫌いかは置いといて、二種類に分けられるなぁと思う。

最初に意見を言えるひとがいる会議か、いない会議かだ。前者は進むし、後者は進まなかった。

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僕はこの「最初にアイディアを出せるひと」が会議に一番必要だと思っている。

ひいては集団においてのカリスマになるべきだし、こやつが一番かっこいいと思う。

後出しで批判することは誰だってできる。

アイディアの質が良くなることも大事だけど、「最初にアイディアを出せるひと」のパフォーマンスが、今後落ちていかないことも大事だと思う。

今までも「最初にアイディアを出せるひと」が尊重されがちな集団は、前進する速度が速かった。

「アイディアを出すひと」は少なくとも建設的で前向きなテンションを持っている。その気持ちが折られやすい環境はなかなか発展しにくい。もちろんケースバイケースなのだが。微妙なアイディアは、どうしたって微妙だから、難しいところだ。


退廃的なひとが、会議というシーンにどれぐらいの割合必要なのかはわからない。

ゼロの方がいいのかもしれないし、リスクを抑えるために、少しはいたほうがいいのかもしれない。

会社組織で働いているひとと話してみたい。
僕よりもたくさんの実体験を持っているのだと思う。
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ゲリラライブだった。
会えたひとたちありがとう。

ちなみに当日解禁のゲリラライブは、リプライやメールで予約してもらっても、予約してもらわなくても料金が変わらない。

フラッとやってきて、「QOOLAND観に来た」と言ってくれたら最安の料金で入れるようになっている。

僕たちの「今日演ります」と、あなたのヒマな日が惑星直列のように、揃ったときは「ヒマだし行こー」ぐらいのテンションで是非来て欲しい。


さて、僕たちQOOLANDはそんな活動を基軸にして、楽しくやっている。4人でまぁまぁ仲良く(たぶん仲良いと思う)。


改めて思うが、「楽しく」って大事なことだ。

「楽しい」ということを基準にすることが良くないと信じているグループがある。

上昇していくこと、精度、資本を何よりも大切にしていて、「楽しさ」はそれらに対して何の特にもならないという考え方だ。

ブッ壊れてしまっている体育会系の部活や企業なんかが完全にそれだ。


僕は「楽しい」が基準じゃないと、いろいろな部分に耐えきれないんじゃないかと思う。


やらなきなゃいけないことや基本や原則、ルールなんかは諸々あると思うけど、「絶対に守らなきゃいけないもの」なんて、じつはいくつもない。

強いて言うなら「楽しくないといけない」ということだ。

言い換えるならば「ワクワクしていないといけない」ということになる。

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「自分が楽しむことばかりやっていてはいけない」

「自分の好きなことばかりやっていてはいけない」

そういう言葉がある。
でも「ワクワクする」という状態に勝るものは何なのだろうか。


「やった方がいいこと」の重要性を説くために"楽しい"が、まるで悪かのようにやり玉にあがることがある。

「自分が楽しんでばかりいてはいけない」というものだ。

大抵の「やった方がいいこと」と「そのひとが楽しんでいること」にはなんの関連性も無いのに、「まず楽しくなくなること」を下準備として、強いてくるひとがいる。


僕は「楽しいか否か」ということを基準にすることは、選択やパフォーマンスのレベルを基準にしていることだとも思っている。

大変な場面を乗り越えるとき、努力や根性というアプローチだけでは脆いとも感じている。楽しければ「努力」と呼ばれるものは習慣になる。


気が滅入っていると選択を誤るし、本来の力も発揮できなくなる。そういう風に人間はできている。神経とホルモンバランスに依存した生物だからだ。


「楽しい」って簡単なようで難しかったりする。本人に「楽しもう」という意識が無いと、生まれないからだ。

つまり「楽しんでいる」というのは脳自体の準備が整っているというサインなわけだ。
フル回転して、何かさらにアガることを探し続けて、見つけ続ける。

人間は物事を観測をするとき、自分の見たいものしか見れないようになっている。そのときに良いものを観測できるかは、脳が整っているかで決まる。


じつは脳みそとしては、楽しまない方が楽だ。楽しむとエネルギーも消費するし、アウトプットするし、疲れる。

アウトプットするというのは「生きている」ということになる。


「楽しければそれでいい」ということでもないけど、まずは「それが楽しいか否か」というひとつの基準にするのはきっといいはずだ。

楽しいときは、いつもうまいこと転がった。

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「わかりやすいこと」が必要とされる場面がある。

何かを説明するとき、プレゼンのとき、自己紹介のとき。

他にもたくさんあると思う。

場合によっては「何言ってるか全然わからん!お前の説明はヘタすぎる!」と言われたり、相手に思われることもある。

"説明やプレゼン、紹介は簡潔にわかりやすく!"というのが今の世の常だろう。様々なシーンで、複雑でわかりにくいものは悪とされがちだ。


だけど「複雑でわかりにくいもの」が飛び交うシーンもある。

「正確であること」にウエイトが置かれているシーンだ。

何かを製造していたり、研究している場所や調査しているような場所では「長くて、わかりにくい説明」ばかりだったりする。

「複雑でわからない」という場合、「受け手の勉強不足」にされてしまう節まである。
これは「伝える側の責任」を問われがちな、商売の世界とは真逆の価値観だ。


複雑な説明が多いのは、情報を正確に伝えるためだ。

誤解が許されない世界では、「わかりやすく、シンプル」が単なる「不足」に繋がる。

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商売の世界は「お客さんに負担をかけないこと」や「相手のストレスを減らすこと」に重きが置かれている。

商社によって売られているものは、やはりわかりやすい。完璧に分かってもらうことは二の次にしている。


そうしないと商品は売れにくいし、商売は売れないと価値が無いからだ。


研究の世界には、その負担やストレスを越えているひとばかりが住んでいる。

相対性理論はとてつもなく複雑でわかりにくい。発表したタイミングでは、理解できるひとは世界に数人しかいないと言われていた。

だが、その価値は少しも損なわれることは無い。

相対性理論から様々なエネルギーが生まれたし、僕たちがGoogleMAPで知らない町を歩けるようにもなったのも、相対性理論のおかげだ。

アレが分かりやすくて、曖昧な理論だったら、後の発明は生まれていない。


「受け手の負担を減らす」ということばかりを気にしていたら、大きな成果が残らないときがある。

僕が「とにかくわかりやすく」というテンションに対して、懐疑的なのはそのせいだろうか。
もちろん僕が商売人ではないし、クリエイターだからだとも思う。


必要以上に「わかりやすさ」を追求すれば、探求の面白さも無くなってしまう。本質の形状も曖昧になる。


大切なのはバランスだ。
きちんと理解してもらわなくても構わない場面もたくさんある。

その場合は簡略化して、要点をかいつまんで「分かった気になってもらう」のところを目指すといいと思う。

「賢いひとは説明がうまい」というが、「賢いひとは完璧に理解してもらう必要があるかどうかの見極めがうまい」のだろう。


今週から、制作で少し遠くのスタジオに入っている。最高の環境で歌を作っている。有り難いこと山のごとし。楽しい。




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