ゲリラでkinotoだった。今月11本目のライブ。来てくれた人ありがとう。

とにかく何本もライブをしている。前回を越えて越えて進む。



昨日は気分が優れなかったのだけど、「このひと死ぬんじゃない?」ってぐらいの運動をしたら回復した。いいことなんだけど、運動の奴隷と化している。

別に運動を義務にしているわけでもない。

それでも身体を動かす。
満足なパフォーマンスを発揮したいからでもあるし、風邪を引きたくないからでもあるし、強靭になりたいからでもある。


でもなんだろう。それだけじゃない。たぶん約束なのだ。誰かとしたわけでもない自分との約束だ。

「自分に試練を課す」とかそんな大げさな話ではない。

あなたにも絶対に自分との約束があるはずなのだ。

仕事に行くのも、学校に行くのも約束だ。

別に行かなくてもいいのだ。「社会生活を少し曲げる生き方」なんて腐るほどある。
人口的に見ると、日本で繰り広げられてる生き方の方が異端だ。

僕が音楽を作るのもステージに立つのも約束だ。やってもやらなくてもいい。

だから、「自分との約束」なのだ。「義務」じゃない。



「義務」にしてしまうとつらくなる。

やるのが当たり前になるし、やらないと怒られてしまう。ひとは怒られると逆ギレしてやる気を無くしてしまうのだ。これは良くない。

「約束」だと守ることで喜べる。

僕の場合かもしれないけれど、「約束」って減点のシステムにさらされないのだ。


命や時間が自分のものである以上、全部「約束」だし、義務じゃない。


こういう活動をしているのも、新しい歌を作って、新しいことを考えるのも約束だ。

響きが違うだけで、違うことがたくさんある。

どうやったら恐怖感を減らして暮らしていけるだろうか。怯えるとあらゆるパフォーマンスが低下する。

「正義感」と「使命感」とでは結果が変わってくる。どれだけ正しくても、振りかざすとおこがましくなる。

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いろいろと自宅のマシンシステムを換装している。死ぬ程めんどい。

コンピュータが超絶に強いひとというだけで生きやすい時代だなぁと思う。
人並みには強いけど、一個踏みこんだ高度なものがほとんど分からない。

しかし「人並み」のひとでも楽しめるように出来ているパソコンというものは本当に凄い。
というよりOSが凄いのか。windows95以前はそこまで易しくなかったらしい。

それもこれも知らない話だ。

書けない。
換装で疲れ果てている。鬼のような筋トレでもしてなんとか持ち直す。

iTunesで音楽買ってもうた。爆発的に良い。

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Instagram。「いんすたぐらむ」と読む。

SNSの一種だが、今現在、すさまじい勢いで普及しているらしい。

先日、「Twitterやっているのは日本人だけっすよ」という話を聞いた。
その話の信ぴょう性は分からないけど、とにかくInstagramが凄いらしい。

僕はInstagramをやっていないのだけど、「Twitterと何が違うのだろう」と考えていた。

Instagramの楽しみ方って基本的に、「写真を撮ってアップするだけ」なのだ。

Twitterでもその機能はあるけど、Instagramは写真が無いと投稿ができない。「じゃあ別にTwitterで良くね?」とならないのが人間だ。


逆にそれが「参加のしやすさ」に繋がっているのだろう。「写真」という制限がつくことで、何も考えなくてもその世界にダイブできる。

たぶんそれぐらい「参加しやすい」か「しにくい」かは重要なのだ。参加しないと「繋がれない」。SNSは繋がってナンボだ。



Twitterが普及しだしたときに、よく聞いたセリフがある。

「Twitterでつぶやくことなんか別に無いよ」

というものだ。

つまり「いちいち不特定多数にアレコレ言うことなんかありません」ということだ。

ごくごく普通かつ、真っ当な意見だ。

むしろ、「言うことがある」なんて人間は少数派だろう。しかしTwitterという世界にダイブするには、その「言うこと」が必要だった。そして彼らは面倒になり、Twitterから去っていった。


ここから分かるのは、ソーシャルネットワークの中にも「参加できるひと」と「参加できないひと」がいたということだ。

Twitterという大海原にダイブするための「140文字でなんかしら言う」というハードルはわりと高い。

「なんか言って」って、大喜利のような難しさがある。

Twitterにドップリ参加するには、0から1を生み出すか、1を1000にする能力が必要だったのだ。そう思うと「つぶやき」って、じつはクリエイティブな側面がある。


そいつらはどんなやつらだろうか。

分かりやすく言うと、学級新聞で面白いコラムが書けたり、自由帳を渡されたら変なことをちゃんと描けたり、教科書の落書きがうまいやつらだ。

そう、Twitterは杉田玄白をしっかりモヒカンにできたやつのフィールドだったのだ。

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天才・マークザッカーバーグが生み出した世界最大のSNS、Facebookも「参加スキル」がある点は同様だ。

あそこは過去と現在、現実とネットをしっかり連結させられた人々のフィールドだった。僕はここにいなかった。


その点、Instagramは凄い。

写真を撮ってアップするだけだ。
何も生み出さなくていいし、何も膨らませなくていい。
その参加の敷居の低さは他のSNSの追随を許さない。

まさに「誰でも参加できる」ようにデザインされている。そんなSNSは、まだInstagram以外にできていない。

mixiなんてまぁ大変だった。
みんながみんな日記なんてポンポン書けるわけない。

mixiの中に「聴いている音楽をさらす」みたいなサービスがあったけど、アレは好きだった。何故か途中から廃止されてしまった。悲しかった。



これからまだまだ新しいSNSやプラットホームなんかのサービスが誕生すると思う。

真新しさや革新性も普及率に関わってくるとは思うけど、「参加のしやすさ」というのも、ひとつのバロメーターになるのかなぁと感じる。


僕にとってTwitterは自由帳の落書きぐらいに思っている。気軽に何かしら書いて遊ぶためのツールだ。まっさらな場所に何かしらを書くのが昔から好きだった。

逆に写真ってあまり撮らない。
Instagramは今んとこやる予定はない。

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下北沢ERAでゲリラだった。
来てくれたひとありがとう。ERAに来るといろいろ苦しかったときを思い出す。でも今は絶好調にいいことが多い。大好きだ。


僕は幼少期から上手く生きるのがニガテだった。

ひとと仲良くなるのも不得意だし、仲良くなったらなったで、距離感を計り間違えてばかりだった。

壊して、持っていた関係をゼロにしてばかりだった。

客観的に見ても"ほどほどに付き合っとくなら問題ないけど、仲良くなりすぎるとダルい人間"だった。

あなたのまわりにも一人や二人いるだろう。そいつだ。そいつが僕だ。


その未熟かつ、思い込みのキツイ体質のおかげで、小中高から続く友人がいない。今、人生で一番付き合いの長い友人が、タカギになってしまう。

文章化すると、自分のコミュニケーション能力のヤバさが際立つ。


でも「少しでもマシになったらいいな」と思っている。だからたくさん知識を入れた。

そのせいで「ひとと関わるための技術」みたいな知識は人一倍ある。

当然、「知る」と「実践」には果てしないほどの差があって、なかなかうまくいかない。

実際にマシになっているのか、なっていないのかさえ分からないほどだ。


でも、唯一良いと思うことがある。ここLINE BLOGに書く話が豊富なことだ。


そのツールや情報を、ここに僕の言葉で書くことができる。知識は実践できなくても伝達できる。ここに書くことで、誰かの気持ちや暮らしが、少しはマシになるかもしれない。


僕が得た情報が僕の人生を彩るかは分からない。結局ツールなんてものは、使うやつのポテンシャルで決まる。

残念だが使うやつがポンコツなら、どんなにいい武器を手に入れても何にもならない。

僕が手に入れたもので、僕を豊かにできなくても、誰かが豊かになればまだいいかとも思う。

いいヤツぶるつもりもないし、犠牲心が働いているわけでもない。

ただ、自分の駄目なポイントがまわりまわって誰かのためになったなら、それはそれで意味があったなぁと思うのだ。

ここをいつまで書けるのかは分からないけど、今日も来てくれてありがとう。

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「完璧主義」という言葉がある。
これの対義語が、「達成主義」だという話。

「完璧主義という体質がクオリティを下げる一因だ!」と言われるようになって久しい。


僕自身の身に置き換えても「完ぺきにしなきゃいけない!」という意識のとき、良い結果が出たケースは少なかった。
あれもこれもそうだった。結構、完璧主義の病にかかりがちな人間なのだ。


完ぺきを目指すと、口だけ野郎になって、行動の量が減ったりする。そして物事の見方が否定的になる。
Noをベースとして考えていくので、当たり障りのないところに落ち着きがちだ。冒険ができなくなる。オマケにまわりの落ち度が気になりだす。


執着や過干渉や偏愛と「完璧主義」は心理的によく似ている。「絶対に失敗は許されない」という心理ともソックリだ。

そんなとき、大体コケてきた。


世の中、完ぺきにいかないことが常だし、そもそも完ぺきにいったからといって大したことでもない。

言葉にするとわかるけど、「完ぺきなこと」って意外と価値が無いのだ。


それよりも「とにかくやる」のエネルギーの方がデカイし、何かが回りだす。結果として「完ぺき」に完璧主義よりも近づいていく。

最善を選び取るためにウンウン悩むよりも、最低限でOKして、ひたすら動いている方が良いというやつだ。

「案ずるより産むが易し」という言葉は、昔からあるけど本質が集約されている。

ドラクエで学んだはずだ。戦わなければ会心の一撃は出ない。

「前回よりも良くしなきゃ」や「ミスを減らす」は良いものとされているけど、バランスを失うと結果、すべてを失くす。

とにかく手と足を動かしていきたい。振り回したい。

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「人生は」を「自分は」に言い換えてみると、少し物事が小さく見えて楽になるよな!の話をしていた。


「人生はいつも苦しい」

「人生はいつもつまらない」

「人生はいつも間に合わない」


全部の主語を「自分は」にしてしまうと楽になる。気のせいかもしれないが、物事の次元が低くなる。絶望感が身近になる。自分でどうにかできる範囲の問題に成り下がる。



災害や戦争やテロ。
どうしようもない問題を「人生は!」とは言わないなぁと思う。言うひともいるかな。

だけど僕たちが「人生は!」と言って、頭を抱える問題は、そんな大きくはないことだったりする。

苦しいことや、つまらないこと、間に合わなかったことは、意外と自分でねじ曲げられる。

問題には「仕方ないこと」と「仕方あること」がある。俯瞰するよりも体感する方が見える、なんてケースが山ほどある。

前向きか後ろ向きか分からないけど、進めるならいいと思う。どちらにせよ時間軸の中で後退することはできないわけだし、ムーンウォークのまま進んでいくのもアリだ。


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京都でライブだった。
呼んでくれて、観てくれてありがとう。


去年、人知れずやっていたことがある。

「今年いっぱい頑張ってみる」というやつだ。

2016年は12月31日で、自分にいったんピリオドを打つつもりで暮らしていた。具体的に首を吊るとか失踪するとか、そういうネガティブな内容ではない。
自分を鼓舞するために区切りを用いただけだ。


5月も終盤にさしかかり、ようやく今年の僕もそう思えだした。

ここまでの2017年。
思おう思おうとしても、中々思い込めなかった。どこか執着が手放せない日が少なくなかった。
僕はいつも、残り半分ぐらいにならないと調子が出ない。

「今年いっぱい頑張ろう」って「終了の意識」を強くするとも言い換えられる。

そうすると、いろいろと調子が良くなる。
苦痛にも耐えられるし、嬉しいことはもっと希少に感じる。


《2018年、夏。》


みたいな予定や意識を組んじゃうと、その日付けに押し潰されそうになる。昔からだ。
未来が刻印された文字は見るだけでつらくなる。映画の予告とかキツイ。

僕は嫌なバイト先に勤めているとき、いつも「今月いっぱい頑張ってみる」と思って、働いていた。定期は絶対に買わなかった。

「それ交通費損じゃん!」とよく言われていた。

分かる。
分かるが、僕にとっては先々の日付けを目に入れないことの方が大事だった。

交通費の損失分の臨場感を買い取っていた。 

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これまで僕は、いろいろなやり方で世の中と折り合いをつけてきた。

あなただってそうだろう。オリジナルの方法を持っているのではないだろうか。


嫌なことを許しつつ、不満を諦めながら、大切なことを喜ぶための処世術を編み出して、ひとは生きていく。

僕のやり方は「おしまいを意識する」だっただけだ。


緊張感と臨場感を高めて、感受性を過敏にするためのサバイバル術だ。

自分と世界の折り合いがつかないときがある。

大体が世の中や人間に期待しすぎている。過度な期待は毒になる。求めすぎというやつだ。

「もうすぐ終わる!」と考えると、それを手放しやすい。期待している場合じゃないからだ。


自分のために生まれてきた人間なんて、この世に一人もいない。自分のために生まれてきた人間は自分だけだ。

だからこそ、差し伸べられた手は当たり前じゃない。関わっているだけで、ラッキーで偶然で奇跡で運命だ。


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ゲリラライブだった。
渋谷kinotoにて40分。ちょっと長くステージに立っていた。たまたま会えたひとありがとう。


音楽活動って「居ても居なくてもいいよ」がスタート地点になる。

「頼むから音楽をやってくれ」と言われて、音楽人生が幕を開けるやつはいない。モーツァルトの孫の孫とかは強制スタートなのかもしれないけど、例外だ。

そう考えると、僕たち一般ピーポーの音楽人生は「やりたきゃやれば?嫌なら辞めれば?」のまま始まっていく。


そして僕は「どっちでもいいなら、やる」と図々しくポジティブを貫き通して、2017年の5月19日までやってきた。


スタート地点と比べると「どっちでもいい」から「やっていてほしい」が増えてきた。僕が音楽を作ったり演ることを喜ぶひとが出てきた。
それは凄いことだと思う。もはや「そんなバカな」というレベルに凄い。


だけど、いつまで経っても「どっちでもいいなら、やる」は根っこにある。

「やらされている」という感覚になると、全部が破綻するだろう。

もちろん誰かのためになったら嬉しいけど、「誰かのため」だけでも上手く回らない。

あくまで自分が選んで、自分がやりたいからやっているのは忘れないでいたい。


あなたにもひとつかふたつ、「期待されてもないし、やってもやらなくてもいいし、どっちでもいいこと」がないだろうか。

それって、じつはとても面白いことなんじゃないかなぁと思う。

人類も「ノルマがあって、やらなきゃいけなくて、達成が義務付けられていること」だけじゃ、早々に滅びていた気がする。

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「居ても居なくても」には余白があって、ロマンがある。「やってもやらなくてもどっちでもいい」には伸び代しかない。


時と場合によっては、あなたも「期待されていない」という状況に悩むときがあるかもしれない。

だけど、見方によってはその「期待ゼロ」の場所は希少だ。気づいていないだけで、未開の地、可能性しかない場所に立っているのかもしれない。

「誰からも期待されてもいない、特にやってもやらなくてもどっちでもいいこと」を増やすと、他のこともうまく回るときがある。mustだけだと、mustが滞ったりする。


このLINE BLOGはその象徴かもしれない。

別に誰からも頼まれていない。だけど不思議と、ここから面白い出会いがやってきたりする。フレーズが降りてきて、降り注ぐときさえある。


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「深く深く考えたこと」がある。
誰でもひとつぐらいはあるだろう。

そんなコンテンツは特殊だ。スペシャルだ。

深く考えるほど、それについて話すとき、断言ができない。否定もできない。
条件によって、発生する現象が白にも黒にもなることを熟知しているからだ。


それゆえ「深く深く考えたこと」には芯が生まれる。揺るがないものが出来上がる。断言はできないのに、不思議と出来上がる。


だから「深く深く考えたこと」があるひと同士の会話は面白い。聞いていても面白いし、自分が参加できるなら倍面白い。

たとえば同じバンドをやっているメンバーらと話すのは、とても面白いはずだ。

「その音楽を良くすること」について考えた深さに関しては、世界一なのだから当然だ。

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ゲリラライブをすると、年下のバンドさんと共演が多い。

終演後「どうしたらいいすか?」と聞かれるタイミングがある。菅さんの100分の1ぐらいの量だが、僕にもあるはある。


そして、何も言えない。
いや、適切な正解なんて言えるわけないのだ。


なぜなら僕よりも誰よりも、本人たちがそのバンドのことを分かっている。
そして、世界中の誰よりも深く考えて、悩んできている。

それを彼らについて、無知な僕が何か言っても当たるはずがない。

音楽的、技術的なことが言えるほど僕はプレイアビリティも高くないし、ひとに指導したキャリアも無い。

オマケに口頭で伝える能力も低いし、コーチングやティーチングのセンスも無い。欲しいけど無い。

だから「まだ途中なのだから」と言うことが多い。

後は「必ず風は吹くから、それまでひたすらサンドバッグを叩いとくといいんじゃないか」ということぐらいだ。

言い換えると「気楽に、頑張って力を高めよ」でしかない。今思うと助言でもなんでもない。誰でも言える。


先輩扱いしてくれるひとに、気が利いた何かが言えたらなぁと思うときはある。


反面、「無理に聞かなくてもいいんじゃないか」と思いもする。
いや、聞かれるのが嫌とかじゃない。話しかけてくれて、むしろ嬉しい。
ただでさえ雰囲気がアレな僕に話しかけてくれる彼らは器がデカイのだろう。

どうしようもなく悩むときに、ワラをも掴む気持ちで、外に正解を求めたくなるのは分かる。僕も繰り返してきた。

でも、これは「分からないことは誰かに聞け」と教えこまれた通説の影響もあるんじゃないだろうか。

「ひとの話を聞くやつはえらい」とされている風潮はある。

一方で「こいつの言ってることホンマにそうか?」という感覚もいるのかなと感じもする。


「深く深く考える」って「そうかなぁ?」という方向に考えることでもある。

やり始めると、安易なアンサーに手を出さなくなってくる。それは表現者にとって、悪いことではない。


勿論、どこまで行っても表現だし、芸術だし、エンタメだ。
そこに出くわすひとの魂が震えれば何でもいい。それに尽きる。


そんな「深く深く考えているひと」はどんな適当な助言も、受け止めて自分のものにしてしまうから、何をどう聞いてもうまく昇華するのだと思う。そうありたい。 


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10代の頃は根拠の無い自信ばかりだった。
自分は何者でもないクセに、 静かなる自信があった。

思い返すとアレは「感性」だった。そして「創造性」の源泉のようなものだった。


『ワイルドマウンテン』や『安住の地』、『ありがとう』を読んでいるのは、僕と僕のまわりだけだった。

ミズーリ州の変なバンドや残響レコードのバンドを聴いているのも、僕と僕のまわりにしかいなかった。


あの頃、自分でそれらを表現したり、作ったりはできなかった。だけどずっと思っていたことがある。

それが「俺は他のやつらより面白いものを知っている」だ。

要約すると「自分が持っている感性やセンスみたいなものは凄い!口だけでまだ何もできないけど!」となる。


ワンピースやNARUTOほど知られていないけど、絶対に自分の好きなマンガの方が面白いと信じていた。僕の中でミスチルよりカッコいいのは、TTNGやCAT CAT CAT、KBCだった。


そしていつか同じ「感性」のひとが僕の前に現れるはずだった。


だけど『ワイルドマウンテン』や『安住の地』や『ありがとう』のファンは僕の前に現れなかった。
スガちゃんの話やミナミの話、お姉ちゃんの話をできるやつは未だいない。

perfect piano lessonやルルルやMake Believe、Rx Banditsが好きなひとも現れない。


世の中の感性と自分の感性はズレていた。

「いつまでも自分は世の中と整合しないのかな」と落ち込みもした。敗北感もあった。
僕という個が、ホモサピエンスという種の中で淘汰される音が聞こえた。


だけどMOROHAやbachoがいることに世の中は気付きだしたし、岡崎体育にだって気付いた。スプサマだってシリカだってsusquatchだって、きっとそうだ。

「こんなもん出たら世の中ひっくり返っちゃうよ!?」と自分が信じていた作品がある。

主流にならなかったことも何度もあるけど、それも全部まだ途中なのだ。まだ分からない。

ハイスタが、ナンバーガールが、バンアパが9mmがちゃんとひっくり返した。


そんなカウンターカルチャーが大好きだった。

サブカルってことなのだろうか?

僕の心を魅了したアレらは、そんなショボい言葉に収まらないような気がする。もっと根源的なカウンターを感じる。


何者でもないのに、根拠の無い自信があるやつは、ちょっと苦しい。
自分の中の温度と、まわりの温度の差に心が痛くなる。

でも内と外に温度差があると電気が発生する。温度差があるところにはエネルギーは生まれる。それは磁場となり、何かを引き寄せもする。

僕のようなやつの身にも何度もいろんなことが訪れた。何度だって訪れる。


同じような人間がここを読んでいるならば、僕は何かを作って何かをひっくり返さないとなぁと思う。

それはもうやらねば思う。男なのだから。


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