いつもながらですが、「田中聖容疑者」というように、「容疑者」呼称をマスコミが無反省、定型的に使うのはやめてほしいと思います。「田中聖氏」でよいと思います。これも繰り返しになりますが、英語のニュースでは、逮捕されても、Mr. Tanakaと書くのは普通のことです。

ましてや、報道においては、ご本人は否認されているということなので、Mr. Tanane denies the allegations.などと、Mr. をつけて報じるのが普通の感覚だと思います。

判決で有罪が確定するまでは、「推定無罪」なのですから、逮捕された段階で「容疑者」という呼称をつけることが、人権上きわめて懸念されることは言うまでもないでしょう。

もちろん、「容疑者」という一般名詞自体を用いることは問題ありません。たとえば、「警察は容疑者の身柄を確保した」というように。私がここで反対を表明しているのは、「田中聖容疑者」というように、あたかもその人に対する社会的評価、肩書のようなかたちで固有名に続けて「容疑者」名をつけるという習慣に対してです。

さらに言えば、マスコミが横並びで同じ表現を用いることに、強い違和感を持ちます。なぜ、各社、各メディアそれぞれが独自の判断をしないのでしょう。このような談合体質が、日本のメディアの最大の欠点であることは、すでに繰り返し指摘されてきているところです。

以上のことは、犯罪報道一般に言えることですが、以下に、大麻についての私の考え方を記します。

私個人の考え方では、大麻を含む意識の変性状態をもたらす物質の摂取は脳の神経系に非可逆的変化をもたらす可能性があるので「不使用」を勧告しますが、大麻の使用の非犯罪化や合法化の流れもある中で、日本のメディアが相変わらず「重大犯罪」のように報じ続けることにセンスのずれを感じます。

大麻を含む意識の変性状態をもたらす薬物の使用者、依存者に対する適切なアプローチは、犯罪化ではなく、公衆衛生的なアプローチ、さらには医療的扶助でしょう。日本のメディアがそのような重要な論点について主導的役割を果たさず、相変わらずの定型的報道を繰り返していることは、非常に残念です。

以上のことは、日本のマスメディアが、政治や警察などの公権力に対して、独自の批評的スタンスをもたず、追随、広報的役割のみを担っているという、以前から指摘されている本質的な欠点と深く関係していると私は考えています。

最後に、田中聖さんが、今回のことにかかわりなく、前向きですばらしい人生を送られることを心から願っています。


rainfuwafuwa

しえりさん

こんにちは。質問です。

『その場で感じている感情よりも、時間がたってからふと思い出したときの感情のほうが本当の感情に近い』という話を聞いたことがあります。

これは正しい話なのでしょうか。

五感で感じた情報はすぐバイアスがかかってしまうのではないかと思います。

脳科学的にはどうなのでしょうか。

よろしくお願いいたします。

ご回答。

面白いことを考えますね。

「本当の感情」ということを科学的に定義できるかといえば、おそらくできないでしょう。

「その場で感じている感情」と、「時間がたってからふと思い出したときの感情」は、脳内過程として、どちらがほんもの、というよりも、違うわけで、それぞれの違いを見極める必要があると思います。

「その場で感じている感情」は、いわば、即座の反応で、一般に扁桃体などの感情系の処理の方が大脳皮質よりも早いことが知られていますから、生体としての本当的な反応に近いのだと思います。

一方、「時間がたってからふと思い出したときの感情」は、大脳皮質の後付処理を経ているわけですから、当初の反応よりも、より、過去の記憶との照合や、関連付けが進んでいると考えた方がいいでしょう。

つまり、そのような違いが、感情としての色付けを変えているものと思われます。


nounandemo

 
脳なんでも相談室へのご相談は、http://lineblog.me/mogikenichiro/archives/1294423.html のコメント欄までお願いします

 昨日、先日の講演の後で、児童精神科医の方がいらして、「茂木さん、失礼ですが、子どもの頃、発達障害と診断されたことはありませんでしたか?」と聞かれた、という話を書いた。

 その際、私があまり動揺とか、驚きを感じなかったのは、「まあ、そういうこともあるだろうなあ」というくらいにしか思わなかったからである。
 
 しかし、一般には、「発達障害」(developmental disorder)という「診断」をつけられたら、動揺されるお子さん、親御さんが多いだろう。

 医者などの「専門家」から、「お子さんは発達障害です」という「診断」を受けたら、それを絶対的な「真理」として受け止め、「どうしよう」と思うのは、人間の心理として、自然だろう。

 しかし、実際には、神経学的に「典型的」な人と、「発達障害」の人の間には、無限の段階(スペクトラム)がある。
 発達障害であるかどうかは、さまざまな基準で判断するが、それは絶対的なものではない。
 むろん、診断基準そのものは、さまざまな科学的知念に基づいて構築されてきたもので、それなりの根拠があるのだけれども、人間の多様性を、ある境界で区切るのだから、その振り分け自体は人為的である。

 そのことは、専門家はわかっている。しかし、必ずしもそのニュアンスを伝えていないし、伝わらないだろう。

 学習障害と診断されることで、適切な支援を受けたり、学習環境を整備されたり、場合によっては医学的な処置を受ける、というメリットはあると思う。

 一方で、「学習障害」という名前が一人歩きしてしまって、必要以上にご本人や家族が気にしてしまったり、それによって自由が奪われてしまうと、本末転倒になってしまう。
 私のように、児童精神科医の方に今になって「発達障害では」などと言われて、しかしこれまでそんな意識も特になく生きてきたケースもある。

 人間の多様性を科学的に解明することも大切だし、その中の、助けを必要とする方々を「診断」することも大切だが、そのような「診断」が一人歩きすることは、科学的な真実から遠ざかるだけでなく、その方々やご家族にも、あまり良い影響を与えないように思う。

 だから、心から申し上げます。
 「発達障害」という診断がたとえあったとしても、それをもとに、特別な配慮や、工夫、場合によっては治療を受けることはよいとして、必要以上に絶対視したり、自分や他人を、それによって決めつけることはうめてください。
 そのような態度は、発達のためにかえってよくないと同時に、科学的にも真実から遠ざかることになってしまいます。

 すべては、多様性の中で、つながっているのです。
 そこに「区切り」を設けるのは、人間です。


suyasuyaneko

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