twitterのサブアカウント(非公式)のDM(ダイレクトメール機能)で悩んでいる人の話を聞いていたらだんだん増えてきて多くの人から
ボリューミィかつ大量のDMが届いた。

おざなりにはしていないんだけど自分が納得いくことしか言いたくないので
文章を読んでから返すのに数日かかったりして、
まだ3パーセントくらいしか返せてない。
全部返すのもしかしたら数ヶ月かかるかもしれないけど
とりあえず合間の時間に読んだり返したりをしている。

(どうしてもすぐ返したほうがいい逼迫したメッセージはバファリンとしてすぐに返している)

昨日から今日にかけては

「やる気が出ません助けてください」

という悩みメッセージについて考えていた。

個人的なことしか言えないのだが、私の場合やる気なんてあった試しがなく常に必要に差し迫られて行動している。
ずっと出ないならもう出る出ないではなく「そんなものは最初からない」でいいと思う。
あなたは正しい。
ないならないあなたが正しい。いいじゃないか、ローコストで。野比のび太の生き方は理にかなっている。

当該の便りは何に対する「やる気」が出ないか記載されていなかったが、

もしそれが受験勉強であれば、偏差値の高い高校の図書館か
もしくは予備校に勝手に忍び込み周囲の意識や脳波をトレースしたり環境特性に身体を晒すのが良いと思う。
忍び込むって主体性に溢れた行動だから脳が前向きな感じになってくると思うので、
前向きになってきた隙に思う存分エリート連中のエーテルを細胞に滲み込ませる。
内部から分泌させる工夫を考えるよりもそちらの方が早いのではないだろうか。
(この手法は受験以外の様々な局面に応用可能である)

やる気なんて最初からない。出せという方がおかしい。それくらいの構えで全く問題ない。

そもそも理不尽が多い。

高校生の時、体育の時間だからと急に「50メートルを走れ」とか言われる。
なんでだよ。別に今そういう感じではない。

しょうがないから一応指示に沿って身体を移動させると「やる気がない」とか言われる。 

当たり前だ。なぜ咎める。

そもそも「50メートル」という区切りがよくわからない。
そんなきっかり走るブームなんか一生来ないと思う。

人間が走る動機としては、何か大きな感動に身体を突き動かされたり、敵や恐ろしいものから逃げたりといったものがあるが、
そんな時にきっかり50メートルを走る人がいたら脳が故障している。アンポンタンだ。
そんな指示にやる気が出ないこちらの感性の方が絶対正しい。
私はこのアンポンタンめ、と思い、ポケットに手を突っ込み先生をガン見しながら50メートルを邁進した。

そもそも「やる気が観測できない」状態に反応して怒るのはコミュニケーションとして変だ。
成立していない。

命令に機敏に反応できるかどうかよりも、
『その命令に従う価値があるのかどうか、その場で考えられる力』の方が、
生きる為に必要で大切で尊いに決まっているのに、こちらの「判断気配」を過敏に感じ取りブチギレる

そういった理不尽は社会を構築する上で満ち溢れてしまうものだが、

もしその回路が自分の内側に必要ないと状況判断した時は、変なブチキレは受け流していい。
受けながすとたぶん怒られるが、それも受け流していい。

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なんなら、「キャンセル」という字幕を各々持ち歩いたらよろしいと思う。


要するに、「やる気」という言葉は頻繁に理不尽な回路形成に用いられる便宜的ワードであり、
実態は怪しい。

具体的に例えると、「保険証」ではなく「マイナンバーカード」といった感じであって
制度を用いたい方のみ使えばいいのではないだろうか。

私はそんなもの信用しない。


信じられるのは目の前の、今の自分が、どれくらい事を成しているか。それだけ。



そんなに映画を見る習慣がない私でも大好きな、事細かにシーンを覚えてしまうくらい好きな映画には大抵「中村屋シーン」がある。中村屋とは、歌舞伎の最高に盛り上がる名シーンで観客が舞台に向かって歌舞伎役者の屋号を投げかける合いの手、いわゆる「大向こう」のことで、要するに「中村屋シーン」とはおもわず合いの手を入れたくなるような名シーンのことを勝手にそう呼んでいるのだ。

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例えば2001年宇宙の旅の『猿の棍棒がロケットにジャンプカットするシーン』で両手を握りしめて「中村屋」(本格的っぽい言い方で)って心の中で言う。っていうかその時は全体的に歌舞伎の世界観のなんらかが憑依した感じになる。それだけの事なのだが、待ってました感、ついに来た感、これが見たかった感、脳の求める刺激のモヤがかかった空想と与えられたものが大スケールで完全一致し砲煙弾雨降り注いでくる電気ショック、幽体離脱、地球は青かった、カンブリア爆発やっとかめ感がとっても楽しいのでしょっちゅうやる。家だと実際に声に出してやる。オススメ。無料。ガラスの仮面読んでて「恐ろしい子」きました、「中村屋」。格別。最高。楽しんでる自分と楽しんでる自分を楽しんでる自分で掛け算みたいなことになるのでシンプルに楽しむ場合の8倍くらい楽しめる。私はこういう現象を全般的に「エンジョイの乗算」と呼んでいる。これを自然にやってるのが例えばセンター街(現バスケットボールストリート)にたむろする女子高生だったりして彼女らは明らかに「女子高生を謳歌する自分自身の状況」そのものをエンジョイすることによって絶対に本来のエンジョイの8倍くらいのエンジョイを得ている。さらに女子高生っていうのは期間限定というタイムボーナスのようなものが加算されるので「期間限定で今しかエンジョイすることのできないエンジョイを今まさにエンジョイしている状況」として32倍くらいのエンジョイをご査収している。ズルい。よく思うのはもともと生まれ持った完全な美人よりも全身を整形して後天的に自分の理想とする完全な外見を具現化した人の方が絶対に瞬間的な「今生きるこの瞬間に心を踊らせるエンジョイ度」は高いはずで、それは「理想とする状況を今まさに手に入れている私」という「エンジョイ指数」が乗算されているからだ。ソシャゲの課金ガチャなども、出てくる景品が画像一枚でもプレイヤーにお金という装置を通して間接的、バーチャル的に「状況意識」を発生させ最大化することによって莫大なエンジョイ係数を弾き出す。何事もできるだけお金を払った方が楽しい。要するに人間は「現象」そのものよりもどちらかというと「状況」すなわち物事の因果関係や文脈に対して「エンジョイ」を得ているということで、つまり論理的には指数に着目し極めていくとこでノーリスクで無限大のリターンを得られるようになるはずだ。具体的には「ありがてえ、ありがてえ」など飢饉のときに少ない米を分けていただいた農民のような気持ちでご飯を食べることによってマインド的にはすごい美味しくなるといったような言うなれば貧困社会におけるライフハック手口である。

この「乗算」のスタイルには大きく分けて2種類のやり口が見えてくる。「静の乗算」と「動の乗算」である。「静の乗算」は仏のような気持ちで達観しこの世の生けとしし生けるありとあらゆる森羅万象をとことんまでありがたがってみるというやり口、一方「動の乗算」は状況を得たラッキー、僥倖、ハピネスを最大限に味わい尽くし天空高く歓喜の咆哮をあげるというやり口である。上記にあげた例で言うと「中村屋」は動のやり口、「飢饉の農民」は静のやり口ということになる。人間の脳みそは同じ刺激の連続にすぐに飽きるので1日のバイオリズムに合わせて静と動の乗算をうまいこと使い分けるのが効果的だと考えられる。さらに言えば乗算しすぎても疲労で精神がクラッシュするので静と動の乗算の合間に「諸行無常」「盛者必衰」「すべてがどうでもいい」などの「空」のタイム、要するに「あえてのゼロ」をいい感じに取り入れて(野比のび太のようなイメージ)精神世界のサーフィンを堪能することに成功したらもはや「状況マスター」と言っても過言ではない。
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温室のように湿度を閉じ込めてしまったから

一生空間がある(透過光と違って)


「モノが人間の目を気にしている」


高度経済成長期にはモノと人の間に親密な関係があり、エネルギーを交流していた、この写真からそんな気配を感じ取ることができる。


それに比べると現代のモノは、だいたい神を真似て作った折り紙みたいでほとんどイメージを纏っていない。平坦である。クセがない。基本的に黙っている。

電子犬AIBOの残骸がきっと死体だとしたら、一度も生まれてきていない。そうやって一旦意識すると何がどの程度魂を帯びているかすぐ分かる。娯楽の為に造られたモノ、玩具はやはり人間の目をすごく気にするのでいつも魂が宿りやすい。こっちをちゃんと見ているし、時に寂しそうであったり、心を反射してキラキラしている時もあるし、こちらが真面目に構えていると妙に神妙な面持ちで物体のふりをしていることもある。

部屋の中を少し見渡すと、特に死んでるモノはCDで、これでは買う人が少なくなって当たり前だ。なぜならほぼパソコンにデータをスキャンされて役割がなくなるのでなぜかデータが空間に突出しているような感じであって、魂が外周のなくなったドーナツみたいになっているからだ。音楽はどこにあるんだろう。分からないが空間が必要だ。私は生きているCDが、ジャケットがあり歌詞カードがあり版のデザインがあり音楽があり、両手に収まるくらいの折りたたみ式で展開されるCDが好きなので最近ポータブルCDプレーヤーを探している。電気屋で見つけてすぐに買わなかったのは、そこに売っているCDプレーヤーがやっぱりなんだかデータを取り出すだけの装置のようなデザインをしていてつまらなかったからだ。


先日出演したイベントで登壇者の方に「メンヘラでしょ。リスカしてそう」って言われて衝撃。一回もやったことないのになんでそんなこと人前で言われなきゃなんないんだと思いつつ、それ言ってる人が元名古屋市長河村たかしにクリソツな味のある名古屋訛りのイントネーションでなんか憎めねえと思ってたらそう飲んでもないのに雰囲気でベロベロに酔っぱらい「口説かれエピソード」を聞かれてしょうもないいらんこと言ってしまった すいません ほんと誰も悪くないんで勘弁してください どうもすいませんでした



そもそも「メンヘラ」って古い概念というか、語感や印象からして時代に応じたアップデートが施されておらんというか、2016年からするとどうも周回遅れって感じなので使いどころなくねえ?って思ってたけどオールドスタイルな、クラシカルな由緒正しき「メンタルヘルラー」のような方が未だに生息しているらしい。そんなちょっとクラッシックなレッテルを未だに貼られ続けて止まない人種が根絶はしていないみたいでちょっと気になったので「メンヘル」関係の blogとかを幾つか読んでみたらなんとなく時勢とメンヘラについて見えてくるところがあったので、記す。

(私の個人的印象なので、正確な記述ではない)



まずメンヘラの定義については


⑴人間関係を築く上で


「何らかの形で可視化された心の傷」


を他者からの承認を得る手段として積極的、もしくは受動的ではあるが意図的に継続して用いる



⑵心の傷を可視化する手段として一定の様式に沿った手法を用いる

(一定の様式=向精神薬の服用、リストカット、精神の閉塞をテーマとする独自性のないポエムなど)



の2点を満たす人物



とする。






そもそもなんで死語っぽいムードが「メンヘラ」とかいうワードからしてくるかというと、やはり時勢とのヴァイブス、これがさほどない。



なぜ時代に即さないかというと、




「メンヘラ」の様式がこれはもう、2016年においては申し分なくコスパが悪い。コンテンツ性が低い。


なんでかというと、リアルに景気悪くて実際に食えてない人間が多数いる前で心の傷を具現化されても「うるせえな」「だからなんだ」となるし、普通にそれどころじゃない。


やはりある程度「フツーの生活」っていうものが飽和したどんより薄曇りのような空気感でないと難しい。オウム真理教とか流行ってた時代は社会不安への同調みたいなものの断面を鮮やかに浮かび上がらせる明確な傷口として機能したかも知れないが、いかんせん時代が悪い。何かプラスアルファーの要素、もしくは表現の独自性があればまだしも、リスカ一本では厳しいといった風潮。独居老人の死などの方がよほどリアリティーあるし勝てないと思う。


インターネット、iphoneの普及によって様式のイメージも徹底的に普及したので、草間彌生クラスのマジの凄みがないと人の心を動かすには至らないし、わざわざ好き好んで傷口の断面を見せつけなくてもそもそも世の中が傷口の断面まみれでもう地獄がありありと目に見えてぶら下がっているような状態だからリスカの画像とかは背景と情報の内容がかぶっちゃって逆効果。語感の「若干メルヘンっぽいファンシーな現実逃避的雰囲気」もこうも地獄の感が露呈してしまうともはや今更ムードである。


心の傷心の傷ってそんなもの生きていりゃあ誰でも必ずあるので旧態依然とした表現方法はそろそろやめてアップデートしよう。





私が思うに、地獄にはマジモンのPOPが似合うよ。





























 横浜のみなとみらいから少しいったところに、顔が三つある女の子が住んでいて、名前を、時計回りにサリュー、ドリュー、馬頭(うまがしら)といいます。彼女たちは一つしかない体でまともに生きるために、天然パーマの黒い髪の毛を腰までのばし、順番をきめて交互に顔を出すことにしています。サリューが長い髪の毛を額で二つに分けたときは、くしゅくしゅした毛にドリューと馬頭が隠れます。サリューは手先が器用なので、ふたりが苦しくないようにきれいに髪の毛を整えてあげます。サリューが顔を出した次の日には、ドリューがヘヤーバンドーで前髪をそっくりあげて顔を出します。ドリューは少々荒っぽいので、サリューと馬頭は目の中に短い毛が入ったり、息が苦しいのを我慢しなければなりません。そしてドリューが顔を出した次の日には、サリューが顔を出します。馬頭の番は来ません。18年間くしゅくしゅした長い毛の中で待ち続けました。雨が降って息の詰まるときも、雪のせいでまぶたが開かない日も、じっと待ち続けました。それでも馬頭の番は来ません。なぜなら馬頭の顔は馬だからです。しかもサリューとドリューの顔は比較的お腹側についているのに対し、馬頭の顔はぴったりと背中側を向いてついてるのです。ドリューは運動が得意なので、ドリューの顔がでているとき、女の子はよく走ります。すると馬頭は走りたいのと、悲しいのとで、蚊の鳴くような声でヒヒン、ヒヒンと嘶きます。くしゅくしゅのすきまから手の届かない世界が離れてゆく光景が一瞬目に映り、やがてぼやけた視界に毛がはりついて目の中でぎりぎり暴れるので、馬頭はおろおろと涙をこぼしながら、何も考えないことを考えます。今、何年なのか、馬頭は知りません。ある年の、一月一日、サリューが死にました。ドリューがドッチボールをして転んで、強く頭をぶつけたときに、サリューをぶつけ、へこんだ顔がぐずぐずにくずれてとれたのです。とれた顔の処分に困ったドリューは、ふさふさの髪を束ねるリボンをほどいて馬頭の顔を突き出してやりました。突然視界に溢れる閃光と色の世界に興奮した馬頭はいつもよりもほんの少しだけ強く啼きました。「食いなよ」馬頭が初めて食べた食べ物は、ぐずぐずで味もよくわかりませんでした。上手く飲み込めないので、今食べたばかりのものが鼻の穴から垂れて唇を濡らしました。
 ドリューはいつものようにヘヤーバンドで前髪を止めて、後ろで一つに結びます。その中で馬頭がふさふさのしっぽのことを夢に見ながら、何も考えないことを考えます。ドリューが馬頭の顔を潰そうとしてるという考えを、考えないように考えます。















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