水野しず 公式ブログ

1988年12月19日生まれ、岐阜県多治見市出身、現在は東京都在住。ミスiD2015グランプリ。アイドル、漫画家など。 長所、正直。短所、正直

先日出演したイベントで登壇者の方に「メンヘラでしょ。リスカしてそう」って言われて衝撃。一回もやったことないのになんでそんなこと人前で言われなきゃなんないんだと思いつつ、それ言ってる人が元名古屋市長河村たかしにクリソツな味のある名古屋訛りのイントネーションでなんか憎めねえと思ってたらそう飲んでもないのに雰囲気でベロベロに酔っぱらい「口説かれエピソード」を聞かれてしょうもないいらんこと言ってしまった すいません ほんと誰も悪くないんで勘弁してください どうもすいませんでした



そもそも「メンヘラ」って古い概念というか、語感や印象からして時代に応じたアップデートが施されておらんというか、2016年からするとどうも周回遅れって感じなので使いどころなくねえ?って思ってたけどオールドスタイルな、クラシカルな由緒正しき「メンタルヘルラー」のような方が未だに生息しているらしい。そんなちょっとクラッシックなレッテルを未だに貼られ続けて止まない人種が根絶はしていないみたいでちょっと気になったので「メンヘル」関係の blogとかを幾つか読んでみたらなんとなく時勢とメンヘラについて見えてくるところがあったので、記す。

(私の個人的印象なので、正確な記述ではない)



まずメンヘラの定義については


⑴人間関係を築く上で


「何らかの形で可視化された心の傷」


を他者からの承認を得る手段として積極的、もしくは受動的ではあるが意図的に継続して用いる



⑵心の傷を可視化する手段として一定の様式に沿った手法を用いる

(一定の様式=向精神薬の服用、リストカット、精神の閉塞をテーマとする独自性のないポエムなど)



の2点を満たす人物



とする。






そもそもなんで死語っぽいムードが「メンヘラ」とかいうワードからしてくるかというと、やはり時勢とのヴァイブス、これがさほどない。



なぜ時代に即さないかというと、




「メンヘラ」の様式がこれはもう、2016年においては申し分なくコスパが悪い。コンテンツ性が低い。


なんでかというと、リアルに景気悪くて実際に食えてない人間が多数いる前で心の傷を具現化されても「うるせえな」「だからなんだ」となるし、普通にそれどころじゃない。


やはりある程度「フツーの生活」っていうものが飽和したどんより薄曇りのような空気感でないと難しい。オウム真理教とか流行ってた時代は社会不安への同調みたいなものの断面を鮮やかに浮かび上がらせる明確な傷口として機能したかも知れないが、いかんせん時代が悪い。何かプラスアルファーの要素、もしくは表現の独自性があればまだしも、リスカ一本では厳しいといった風潮。独居老人の死などの方がよほどリアリティーあるし勝てないと思う。


インターネット、iphoneの普及によって様式のイメージも徹底的に普及したので、草間彌生クラスのマジの凄みがないと人の心を動かすには至らないし、わざわざ好き好んで傷口の断面を見せつけなくてもそもそも世の中が傷口の断面まみれでもう地獄がありありと目に見えてぶら下がっているような状態だからリスカの画像とかは背景と情報の内容がかぶっちゃって逆効果。語感の「若干メルヘンっぽいファンシーな現実逃避的雰囲気」もこうも地獄の感が露呈してしまうともはや今更ムードである。


心の傷心の傷ってそんなもの生きていりゃあ誰でも必ずあるので旧態依然とした表現方法はそろそろやめてアップデートしよう。





私が思うに、地獄にはマジモンのPOPが似合うよ。





























 横浜のみなとみらいから少しいったところに、顔が三つある女の子が住んでいて、名前を、時計回りにサリュー、ドリュー、馬頭(うまがしら)といいます。彼女たちは一つしかない体でまともに生きるために、天然パーマの黒い髪の毛を腰までのばし、順番をきめて交互に顔を出すことにしています。サリューが長い髪の毛を額で二つに分けたときは、くしゅくしゅした毛にドリューと馬頭が隠れます。サリューは手先が器用なので、ふたりが苦しくないようにきれいに髪の毛を整えてあげます。サリューが顔を出した次の日には、ドリューがヘヤーバンドーで前髪をそっくりあげて顔を出します。ドリューは少々荒っぽいので、サリューと馬頭は目の中に短い毛が入ったり、息が苦しいのを我慢しなければなりません。そしてドリューが顔を出した次の日には、サリューが顔を出します。馬頭の番は来ません。18年間くしゅくしゅした長い毛の中で待ち続けました。雨が降って息の詰まるときも、雪のせいでまぶたが開かない日も、じっと待ち続けました。それでも馬頭の番は来ません。なぜなら馬頭の顔は馬だからです。しかもサリューとドリューの顔は比較的お腹側についているのに対し、馬頭の顔はぴったりと背中側を向いてついてるのです。ドリューは運動が得意なので、ドリューの顔がでているとき、女の子はよく走ります。すると馬頭は走りたいのと、悲しいのとで、蚊の鳴くような声でヒヒン、ヒヒンと嘶きます。くしゅくしゅのすきまから手の届かない世界が離れてゆく光景が一瞬目に映り、やがてぼやけた視界に毛がはりついて目の中でぎりぎり暴れるので、馬頭はおろおろと涙をこぼしながら、何も考えないことを考えます。今、何年なのか、馬頭は知りません。ある年の、一月一日、サリューが死にました。ドリューがドッチボールをして転んで、強く頭をぶつけたときに、サリューをぶつけ、へこんだ顔がぐずぐずにくずれてとれたのです。とれた顔の処分に困ったドリューは、ふさふさの髪を束ねるリボンをほどいて馬頭の顔を突き出してやりました。突然視界に溢れる閃光と色の世界に興奮した馬頭はいつもよりもほんの少しだけ強く啼きました。「食いなよ」馬頭が初めて食べた食べ物は、ぐずぐずで味もよくわかりませんでした。上手く飲み込めないので、今食べたばかりのものが鼻の穴から垂れて唇を濡らしました。
 ドリューはいつものようにヘヤーバンドで前髪を止めて、後ろで一つに結びます。その中で馬頭がふさふさのしっぽのことを夢に見ながら、何も考えないことを考えます。ドリューが馬頭の顔を潰そうとしてるという考えを、考えないように考えます。















「貰えるのがフツー」


って勘違いしやすいシステムが巧みに構築された仮の箱庭、その渦中で我々は当たり前のように貰えるのを待ってしまうことがあって

電車、スマホ、電子レンジ、テレビ、カップ麺、アイドル。待つ、出てくる。虚ろな目で順番を待つ。列の最後尾で虚ろな目で、そわそわして、スマホを弄りながら待っている 貰えるから待っている大人しく待っている正しく待っている善良に待っている全うに待っている模範的に待っている



色んな問題が同時に発生しているけど、



「待つ、出てくる」



の錯覚が私は何より怖い。他人事じゃないから怖い。暴力で他人を支配することはできないと思っている人でも電車の1、2分の遅延をツイートしたり、ガチャでゴミしか出なくてスマホを投げつけたことはあるだろうしそういうのが怖い。


人前に立つときの期待感のプレッシャーは意識の輪郭を際立たせてくれて気持ちがいい、とても好きだけど、なにか出てくるのをぼんやりと待っている人間が放つプレッシャーはとてもとても耐えられないくらい全身の毛穴から悪意を流し込まれるようなおぞましさを感じるし遮断できない。私も相手が人間じゃないからといってこんなにおぞましい意識を放ってしまうことがあるのだろうか。なにを人間じゃないって判断しているのか曖昧でも。私はぼんやりと待つのが怖い。だからいつもクロッキー帳とペンを持ち歩いて待つ自分を阻止しようと、待てばなんとなく与えてくれようとするものに抵抗しようとしている。エレベーターのドアが閉まる時間、コンビニの電子レンジで温めを見ている時間、ドリンクバーのジュースが注がれる時間、人間は、なんとも言えない、なんとも言えない顔をしている。なんとも言えない顔をしている。なんだこれは。沼だ。カイジに出てくるパチンコの名前もそんなだった。簡単で楽で気持ちいいものがばっかだと脳が全部沼になって怖い。

最近豊島区に引っ越したが、しっくりこない。家の中にいても外にいても常に胃の底がフワフワとする。

これは絶対に豊島区のせいだと思い、馴染めない豊島区が全部通学路みたいに見えてきた。少しいいところは70年代ちっくな具体性の伴わないイメージの中のオランダといった風味のメルヘン感のある建物、カワイイパン屋みたいなテーストのお家がなぜか多い。あとのめり込みすぎてておかしくなっているからもうやめなよ、って言ってあげたくなるくらいガーデニングに熱心なお家も多い。しかもとても狭い敷地めいいっぱい面積も空間も張り詰めて次元が歪むくらいパンパンにして。他にやることないのか。(ないのだ)あと全体的に少し豊かなのでキチガイアニマルを見ない。学生時代に住んでいた小平市はキチガイアニマルだらけで、中高年の方は特にキチガイアニマルと相互影響を及ぼし合い、わりとアニマル化しているのに自覚がないという状態だった。なぜかキチガイアニマルの影響を受けた人間は郵便局周辺に集まる習性があるので、私は未だに郵便局周辺がやや苦手だ。




あ、でも
外に出たら、この感じは豊島区のせいだけじゃないと思った。




度を越した春。




夏や冬は暑い寒いで度を超す体感を自覚しやすい、秋も郷愁の念といったような落しどころで受け皿がしっかりとあるが、春の春みは気がつかないうちに肉体に入り込んでくる。自覚しないと余計に影響される。以前住んでいたアパートは屋内をシェルターのようにして網戸を締め切っていたのでさほど家の中にいる分には季節の進入がなかった。それが当たり前になっていたので、屋内で季節に進入がある(至極当たり前のこと)を忘れていた。いっそ日本家屋の一戸建てに住みたい。集合住宅はそんなに季節を考慮していないので春が泥棒みたいになってかわいそうだ。

最近の私は俳句を勉強したので「季語み」として落しどころを探すことができるはずだ。外部ツールによって肉体の進化を経ずにアップデート可能な人間の脳と身体性。


爪髪と春の全、花伸び試合


季語みがスゴいよ。ハイチュウの二噛み目くらい過剰だよ。
ハイチュウて一噛み目はテクスチュアと歯ごたえとハイチュウ果汁がそれなりの良バランスで押し寄せてくるのに、二噛みとなると急激にテクスチュアが消え失せ果汁ばかり、しかも単一の風味で底なしのゾーンに突き落とされるそれがいやなのに私は一噛み目の心地よさが忘れられなくてまだ口の中に二三噛みのハイチュウを残したまま次々に新しいハイチュウのテクスチュアを噛み締めてしまうので、口の中がゾーンまみれになるぶどうぶとうぶとうぶどうぶとう。いやだ、気がつくとハイチュウの棒が半分もないくらいになって青ざめた顔でハイチュウの、真っ白に加工されて穀物の実態を失ったこわいキラキラのシュガーゾーンに持ってかれる、脳が、ズワイ、ズワイと持っていかれる。逃げろ逃げろ、今の春がそんなふうだ

空間全体の雰囲気からして根本的に 透明な感じ、人間がわりと 透明な感じ 

(ほんとうはわからない)

人間の心は信号機みたいに点滅を繰り返して、多分ずっと光が点きっぱなしっていうのは無理なので簡単なコントロールで
変換可能な波長と波長の隙間を点描で埋めるようにして、一連の連なりを生活、とするのであれば

新宿は結構よく血が落ちている
そういった、それらの瞬間を見逃す為に切り落とした世界の断片が寄り集まって生まれた認知の歪みがわたしとおまえを切り離しているので血を見た真顔で

競馬場で馬がばっと白い息を吐いてそれが人間とそう変わらないからそういうのがいやだなーって 生ゴミを入れる袋に人間を入れてもそんなに回収してくれないってことはなさそうじゃないですか テレビの音量が48でも7でも意味内容に変化がない 埼玉8度Cパズドラ新大久保 ああ〜〜だんだんそういうのがきもちよくなればなるほど 街がレゴみたいになるから とても楽しいなあ しかもハムやソーセージはそれなりに肉


タンパク質を摂れ


なるべく多くタンパク質を摂取しろ
それが肉体を保つコツらしいからお前はなるべくできる限り長生きをして見れるだけのものを見ておきなさい

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