水野しず 公式ブログ

1988年12月19日生まれ、岐阜県多治見市出身、現在は東京都在住。ミスiD2015グランプリ。アイドル、漫画家など。 長所、正直。短所、正直

画館に足を運んであっ、そういえば世間的には森達也監督より佐村河内守氏の方が圧倒的に知名度のある存在なんだなということに気がつきました。





FAKE」とは今渋谷のユーロスペース等で公開されているドキュメンタリー監督森達也氏が佐村河内守氏をカメラで追った映画です。


私は森達也氏の作品が好きで映像や著書はほとんど見たり読んだりしていますし、講演会を聴講したこともあります。

なぜ強い関心を持つかというと、森達也氏がカメラを持つ時に強い加害性を意識せざるを得ない点にシンパシーを抱くからです。


カメラを持っていなくても発言することや発信すること、もっと言えば視線は暴力性を孕んでいる。


私が視線の加害性を強く意識せざるを得ないのは、特に幼少期になぜか世間から「変わり者」「奇人」「(何かの)病気の人」として好奇の視線に晒されることが多かったからだと思います。


現在では幸いなことに「奇人、変人」として扱われることに対して、自覚と対処法を習得した(せざるを得なかった)ので常に不特定多数からの匿名的暴力に晒され続ける苦悩はほぼないと言って差し支えのない状態だと思うのですが、特に10歳くらいまでは地域コミュニティーからの閉塞的圧力が耐え難いほど辛く、毎日カレンダーの日数を数えて後何日で、何時間で、何分で、何秒で現環境(保育園、小学校)から離脱できるのかということを常に計算し考えていました。考え続けていました。ヤマギシっていう後に警察沙汰になる変な団体に預けられていたこともあるのですが、学校と比べたらそっちの方が全然マシでした。



自分の見られ方を自覚し、逆手にとった上で社会とのコミュニケーションを図る現在の生き方(対処法)にも弊害はあって、それはマスメディア(もちろん全てではありません)と関わる時に「目立つ為、脚光をあびる為にキャラクターを演じているのだろう」と断定され、演じているものとして扱われてしまうことです。

その為、当然自分のことをもっと多くの人に知ってもらいたいという気持ちはあるのですが安易にテレビ番組等に出演することができません。


テレビの為にキャラクターを演じるとしたら、(価値観が違うだけでテレビの為に役割を把握して演じるプロフェッショナルの方はすごいと思います。楽しそうだなあと思うこともあります)当たり前ですがもっとテレビの求める需要に合致していて扱いやすく、フックとして取り上げやすいキャラクターを構築します。

そもそも私はそんなに器用なことができる人間では全くないのです。


もちろん私は自分の見られ方や世間からの扱われ方を、完全に把握できるわけではありませんがある程度は理解した上で自分なりに見え方を編集、なるべく理解してもらいやすようにコントロールしようとしているのでそいうった意味では演じていると言えます。「そういうのって、分かってやっていらっしゃるんですよね?」と聞かれたら「その通りです」と答えます。


「関わりたくないキチガイ」と「変でキモいけどなんとなく大丈夫な人」の差は紙一重で、私はそれを世界に対する愛だと思っています。

私はこのような世界を肯定したいと思っています。それができないなら死んだ方がマシだと思っています。


だからと言って、人格自体をないもの、虚構のものとして扱われてしまうと、非常に虚しく、哀しい気持ちになります。

なぜなら、私は自分が思ったことしか言わないからです。




 



客席に座ると、奇妙な空気を感じました。



それは、本来交わるはずのない異質なものが一つの空間に混ざり合っている日常生活の範囲ではありえない奇妙な気配です。



普段は徹底的にフィルタリングされ快適化されているはずの異なる視線の交雑。それを背後に感じて初めて



そういえば、世間的には佐村河内さんのゴーストライター事件の方が注目度が高く多くメディアに取り上げられていたということを思い出したのです。

(森達也監督のファンからすれば15年ぶりの新作映画が公開されるということの方がよっぽど事件です)






佐村河内氏の事件がワイドショーを席巻していた頃、私はさほど事件に対して関心がなくそんなに熱心にニュースを見ていませんでした。

(佐村河内氏の独特のムードには多少関心を持ちました)


なぜなら、私は美術大学への進学の為に美術予備校に通っていた時期があるのですが、

予備校教育の時点でクリエイターが戦略として他の人の作品をパクるのは非常に当たり前のこと、むしろ常識的なことだったからです。


大手の美術予備校では何浪もして実力を蓄えた優秀な受験生の作品が何年分もファイリングされ資料として受験生が自由に閲覧できるようになっています。

浪人して実力をつける余裕のある受験生はまだいいのですが、特に経済的、家庭の事情などで浪人を許されない受験生は、積極的に自分の持っている実力で再現できそうな参考作品を何度も模写し、受験で出題される問題(学科ごとに傾向があり、ほとんど内容を予測できる)に合わせて身につけた参考作品のアレンジ作品を受験に持ち込む、という対処法が一般的なのです。それをやろうとしない受験生の方がむしろ落第生の烙印を押されます。学ぶというのはまず真似るとこだという教育は真っ当なものだと思います。

(商業的な経営の為付け焼刃の教育になってしまっているのはまずいと思うのですが)

私は予備校教育のブロイラーでも育てるような商業的圧力に耐えられずほぼ小論文、作文等で美術大学に入学したのですが、あのときちゃんとデッサンをやっていればと思ったことは一度や二度ではありません。(ああーこんなにどうしようもなく絵が下手クソで、そのせいで本当に自分にしか描けないものしか描けなくてよかったと思ったことも何度もあります)



そして受験という関門を突破したら美大生になった元予備校生の意識が変わるのかというとそれは人によるし、基本的に人間の元々持ってる性質はそんなに変わりません。

ただアートをやろうと思って素直に美術大学に入学するような人間は育ちが良くて素直でいい子が多いので受けた教育を真に受けて育つことが多いとは思います。

もちろん全く人の話を聞かないような変人もたくさんいます。

大手の広告代理店の採用試験を突破する為にどこかで見たことのあるようなかっこいいデザインを受験で培った高い技術力で大量に生産する人もいるし、それをおかしいとわざわざ考える人は多分美大にはいないと思います。というか一々そんなことを考えるのは時間の無駄です。

単純に目的の違いでしかなく、自分にしかできないことをやりたい人は自分がやりたいから勝手にそうしているだけです。

そうじゃないと自分が満足できないからそうするだけです。もし稼ぐ以外の目的が完全になかったら効率の良い方法を選択すると思います。

稼ぎたい人間はそう美大なんか行かないと思いますが。


そいうった背景があり、私にとって「他人の作品を流用すること」は本人がそれで満足出来るかどうかという問題なのでわざわざ関心を持つようなことではありませんでした。

それに虚実の曖昧なストーリーがオーバーラップするのも箱根駅伝や甲子園なんかで毎年やっていることでよくあることだと思いました。






なので、上映直前に入ってきて立ち見席のチケットで私の座席の隣の階段に座った女性たちがSNSと雑談をしながら映画の開始を待っているのを見て驚きました。




冷静に考えたら全然驚くようなことではないのですが、まさか森達也の映画を、見物人感覚で笑いにくる人がいるとは思わなかったのです。(でもそれがよかった)


(長くなってしまったので後半に分けます)


今日中野に根本宗子さんのお芝居『バー公演じゃないです』を見に行ったら

 

「闇を感じる」って感想を言ってる人がいて、何を言ってるのかよく分からなくて

 

 

「光は感じましたか?」って聞きたかったけど知り合いじゃないから聞けなくて、

 

 

 

 

「闇を感じる」ってつまり何を感じてるのか分からん。分かったことがない。

 

え?どういうこと?何?何かしら存在してたら陰影があるのは当然ではないの?

  

 

 

 

何を感じているんだい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内面性に言及しているということは何となく分かる。なぜなら暗い夜道に対して「闇を感じる」と言っている人を見たことがないから。

(もしそういう人がいたら面白い感覚)

 

 

 


テニスの王子様を読んで「BLを感じる」

と言っているような感じだろうか。多分違うんだろーな

 

 

 

BL漫画を読んで「BLを感じる」と言っている人がいたら面白いな。鮮度たけえな。

 

スタバに行って「スタバを感じる」

言ってる人がいたら、

スタバってスゴイ。スタバが宇宙なんだなあ、それって素敵って感動すると思う。

 

 

なんだったんだろう。その後熟考して、

根本さんの芝居の「日常会話を極限までアイロニカルに誇張した表現から受けるカタルシス感」をアルティメットPOPに集約して

 

 

 

 

「闇」

 

 

 

 

って言ってるのかな、って言うひとまずの結論に落ち着いたけど、

心の底からから完全にしっくりとはこなくて、納得至らずである。

 

 

お芝居を見ている時に私の後ろに座っている男性が信じられないくらい大きな声で断続的に笑い続けていて、

普段は観客の笑い声って心地よい環境音と感じて好きなんだけど、

今日は芝居が面白くて夢中で見ているのに、意識が何度か中断してしまった。

なんでかというと、彼の笑い声が観客としての笑い声ではあらず、ステージ上で発されるものと同じ性質の

「今、ここに、存在していることを表明する」タイプの笑いだったからで、目の前の舞台と同質なものが背後にもある為に状況の整理に困難を要した。

 

でも彼は目撃に値するようなスゴイ覇気、オーラを放っていたのはマジで確かであって

客席という極めてふさわしくない状況を歯牙にもかけずピンスポ浴びているような感があって、

なにかこう、季節感と相まって想起される「蝉」

7日で死ぬので絶対に、確実に、死んでも鳴き声をこの瞬間に存在させなければならない覇気

そういう感じがして、生きてるなあ、と思った

 

気候が夏なのに蝉の声がないので季節が沈黙したような、

「核汚染後の未来の地球SF」的な物語を空白地帯に書き込んで若干遊んでたけどそーいうのも終わりで夏。



先日出演したイベントで登壇者の方に「メンヘラでしょ。リスカしてそう」って言われて衝撃。一回もやったことないのになんでそんなこと人前で言われなきゃなんないんだと思いつつ、それ言ってる人が元名古屋市長河村たかしにクリソツな味のある名古屋訛りのイントネーションでなんか憎めねえと思ってたらそう飲んでもないのに雰囲気でベロベロに酔っぱらい「口説かれエピソード」を聞かれてしょうもないいらんこと言ってしまった すいません ほんと誰も悪くないんで勘弁してください どうもすいませんでした



そもそも「メンヘラ」って古い概念というか、語感や印象からして時代に応じたアップデートが施されておらんというか、2016年からするとどうも周回遅れって感じなので使いどころなくねえ?って思ってたけどオールドスタイルな、クラシカルな由緒正しき「メンタルヘルラー」のような方が未だに生息しているらしい。そんなちょっとクラッシックなレッテルを未だに貼られ続けて止まない人種が根絶はしていないみたいでちょっと気になったので「メンヘル」関係の blogとかを幾つか読んでみたらなんとなく時勢とメンヘラについて見えてくるところがあったので、記す。

(私の個人的印象なので、正確な記述ではない)



まずメンヘラの定義については


⑴人間関係を築く上で


「何らかの形で可視化された心の傷」


を他者からの承認を得る手段として積極的、もしくは受動的ではあるが意図的に継続して用いる



⑵心の傷を可視化する手段として一定の様式に沿った手法を用いる

(一定の様式=向精神薬の服用、リストカット、精神の閉塞をテーマとする独自性のないポエムなど)



の2点を満たす人物



とする。






そもそもなんで死語っぽいムードが「メンヘラ」とかいうワードからしてくるかというと、やはり時勢とのヴァイブス、これがさほどない。



なぜ時代に即さないかというと、




「メンヘラ」の様式がこれはもう、2016年においては申し分なくコスパが悪い。コンテンツ性が低い。


なんでかというと、リアルに景気悪くて実際に食えてない人間が多数いる前で心の傷を具現化されても「うるせえな」「だからなんだ」となるし、普通にそれどころじゃない。


やはりある程度「フツーの生活」っていうものが飽和したどんより薄曇りのような空気感でないと難しい。オウム真理教とか流行ってた時代は社会不安への同調みたいなものの断面を鮮やかに浮かび上がらせる明確な傷口として機能したかも知れないが、いかんせん時代が悪い。何かプラスアルファーの要素、もしくは表現の独自性があればまだしも、リスカ一本では厳しいといった風潮。独居老人の死などの方がよほどリアリティーあるし勝てないと思う。


インターネット、iphoneの普及によって様式のイメージも徹底的に普及したので、草間彌生クラスのマジの凄みがないと人の心を動かすには至らないし、わざわざ好き好んで傷口の断面を見せつけなくてもそもそも世の中が傷口の断面まみれでもう地獄がありありと目に見えてぶら下がっているような状態だからリスカの画像とかは背景と情報の内容がかぶっちゃって逆効果。語感の「若干メルヘンっぽいファンシーな現実逃避的雰囲気」もこうも地獄の感が露呈してしまうともはや今更ムードである。


心の傷心の傷ってそんなもの生きていりゃあ誰でも必ずあるので旧態依然とした表現方法はそろそろやめてアップデートしよう。





私が思うに、地獄にはマジモンのPOPが似合うよ。





























 横浜のみなとみらいから少しいったところに、顔が三つある女の子が住んでいて、名前を、時計回りにサリュー、ドリュー、馬頭(うまがしら)といいます。彼女たちは一つしかない体でまともに生きるために、天然パーマの黒い髪の毛を腰までのばし、順番をきめて交互に顔を出すことにしています。サリューが長い髪の毛を額で二つに分けたときは、くしゅくしゅした毛にドリューと馬頭が隠れます。サリューは手先が器用なので、ふたりが苦しくないようにきれいに髪の毛を整えてあげます。サリューが顔を出した次の日には、ドリューがヘヤーバンドーで前髪をそっくりあげて顔を出します。ドリューは少々荒っぽいので、サリューと馬頭は目の中に短い毛が入ったり、息が苦しいのを我慢しなければなりません。そしてドリューが顔を出した次の日には、サリューが顔を出します。馬頭の番は来ません。18年間くしゅくしゅした長い毛の中で待ち続けました。雨が降って息の詰まるときも、雪のせいでまぶたが開かない日も、じっと待ち続けました。それでも馬頭の番は来ません。なぜなら馬頭の顔は馬だからです。しかもサリューとドリューの顔は比較的お腹側についているのに対し、馬頭の顔はぴったりと背中側を向いてついてるのです。ドリューは運動が得意なので、ドリューの顔がでているとき、女の子はよく走ります。すると馬頭は走りたいのと、悲しいのとで、蚊の鳴くような声でヒヒン、ヒヒンと嘶きます。くしゅくしゅのすきまから手の届かない世界が離れてゆく光景が一瞬目に映り、やがてぼやけた視界に毛がはりついて目の中でぎりぎり暴れるので、馬頭はおろおろと涙をこぼしながら、何も考えないことを考えます。今、何年なのか、馬頭は知りません。ある年の、一月一日、サリューが死にました。ドリューがドッチボールをして転んで、強く頭をぶつけたときに、サリューをぶつけ、へこんだ顔がぐずぐずにくずれてとれたのです。とれた顔の処分に困ったドリューは、ふさふさの髪を束ねるリボンをほどいて馬頭の顔を突き出してやりました。突然視界に溢れる閃光と色の世界に興奮した馬頭はいつもよりもほんの少しだけ強く啼きました。「食いなよ」馬頭が初めて食べた食べ物は、ぐずぐずで味もよくわかりませんでした。上手く飲み込めないので、今食べたばかりのものが鼻の穴から垂れて唇を濡らしました。
 ドリューはいつものようにヘヤーバンドで前髪を止めて、後ろで一つに結びます。その中で馬頭がふさふさのしっぽのことを夢に見ながら、何も考えないことを考えます。ドリューが馬頭の顔を潰そうとしてるという考えを、考えないように考えます。















「貰えるのがフツー」


って勘違いしやすいシステムが巧みに構築された仮の箱庭、その渦中で我々は当たり前のように貰えるのを待ってしまうことがあって

電車、スマホ、電子レンジ、テレビ、カップ麺、アイドル。待つ、出てくる。虚ろな目で順番を待つ。列の最後尾で虚ろな目で、そわそわして、スマホを弄りながら待っている 貰えるから待っている大人しく待っている正しく待っている善良に待っている全うに待っている模範的に待っている



色んな問題が同時に発生しているけど、



「待つ、出てくる」



の錯覚が私は何より怖い。他人事じゃないから怖い。暴力で他人を支配することはできないと思っている人でも電車の1、2分の遅延をツイートしたり、ガチャでゴミしか出なくてスマホを投げつけたことはあるだろうしそういうのが怖い。


人前に立つときの期待感のプレッシャーは意識の輪郭を際立たせてくれて気持ちがいい、とても好きだけど、なにか出てくるのをぼんやりと待っている人間が放つプレッシャーはとてもとても耐えられないくらい全身の毛穴から悪意を流し込まれるようなおぞましさを感じるし遮断できない。私も相手が人間じゃないからといってこんなにおぞましい意識を放ってしまうことがあるのだろうか。なにを人間じゃないって判断しているのか曖昧でも。私はぼんやりと待つのが怖い。だからいつもクロッキー帳とペンを持ち歩いて待つ自分を阻止しようと、待てばなんとなく与えてくれようとするものに抵抗しようとしている。エレベーターのドアが閉まる時間、コンビニの電子レンジで温めを見ている時間、ドリンクバーのジュースが注がれる時間、人間は、なんとも言えない、なんとも言えない顔をしている。なんとも言えない顔をしている。なんだこれは。沼だ。カイジに出てくるパチンコの名前もそんなだった。簡単で楽で気持ちいいものがばっかだと脳が全部沼になって怖い。

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