無礼を承知でそう聞いた。

セブにあるハワイアンレストラン。
目の前には脚本家の舘そらみさん

(この映画の脚本を書いた方です)


大学1年生。学校に向かう急行電車に乗っているときに、ふと物語が降ってきた。
ガラケーのボタンを凄まじい勢いでコチコチと打ち、30分で書き上げてmixiに上げた。

個性をテーマにしたその作品は、モラトリアム真っ只中の友人たちからの「刺さった」「泣いた」というコメントをかっさらってきた。嬉しかった。


あれ以来、物語は降ってこない。



文章は大学時代から絶えず書いている。

mixiでくだらない日記を
アメブロで意識高い大学生の志や想いを
はてなブログで徒然とした雑記を
各種メディアでエッセイを

書いて、発信し続けている。



「でも、お話を創れないんです」

そらみさんに話した。

彼女は「なになにそれ面白い」と興味を持ってわたしの話を聴いてくれている。


「たまに考えるんですよ。こういうテーマでこういう設定でこういう登場人物でこんなお話を書いてみようって。

でも、すぐ行き詰まるんです。

わたしが実際に見て知ってきた世界しか書けないんです。わたしが実際に思ったことしか登場人物のセリフにできないんです。

それってすごくおもんないじゃないですか。そんなの全部わたしじゃないですか。わたしのことを書くなら創作じゃなくてエッセイでいいじゃないですか。

エッセイってもろ「わたし」じゃないですか。わたしはこんな経験をして感じて伝えたいんダァって文章じゃないですか。わたしもエッセイ書くの好きなんですけど、エッセイ書く延長で話創ろうとしたらなんかうるさいんですよ。話の後ろからわたしの話を聞いて聞いてって叫んでいる気がするんですよ。

自分の経験ありきでずっと文章を書いてきたので、0から想像して「話を創る」って、なんかもう未知なんですよね。どんな思考してるんだろって思ってずっと気になってたんですよね。

だから小説とか書いてる人に会いに行こうって思ってたら、まさかのセブに脚本家さんが来たんですよね。いやもう絶対話さなって思ってたんですよね。

で、脚本家の頭ってどうなってるんですか?」


安いビールと美味しいご飯と傾聴度満点のそらみさんを前に気を良くして、まくし立てるように話した。今更ながら「頭どうなってるんですか」とは我ながら失礼で頭悪そうな質問文。


そらみさんは、少しだけ考える。

「たぶん、わたしと真崎さんでは、同じものを見ても、考えることが全然違うんだと思います。たとえば…」


そらみさんが、道路に目をやる

「今あの渋滞をいっしょに見ているじゃないですか」

視線の先には、フィリピン名物の交通渋滞。


「真崎さんのようなライターさんは、この渋滞を見て『この渋滞をどうやって分かりやすく面白く伝えようか』って考えるのかなって思うんです」


図星。

他のライターさんは分からないけど、そらみさんの言葉はまんまわたしの脳内だった。
 

そらみさんが続ける。

「わたしは、この渋滞を見ながら『もし急にこの渋滞が消えたら、ここにいる人たちはどう感じるんだろう』とか考えてる気がする」


聞いた瞬間、嬉しくて笑けた。

なにそれ。
なにそれなにそれなにそれ。

そんな風に考えたことない。そんな空想しない。事実を事実をままにどう表すかしか基本考えない。

なんなのその思考。
なんなの脚本家。
なんなのちょう新しい!


「なんなんですかそれ!めっちゃ面白い!もともとそうやって『もし〜なら』ってファンタジックな仮定をつくって空想するのがクセだったんですか!?」

わたしの鼻息は荒い。


「あ〜、クセ、だったのかなあ。でも劇団とか脚本とかやり始めた頃からだったかもしれないなあ。意識してやってるうちに"思考のクセ"になったのかもなあ」


なるほどなるほど。

つまりわたしも後からクセづけられるかもしれない。創作脳になれるかもしれない。希望だ。これはとっても希望だ!


「ありがとうございます!今日このお話聞けてすごい嬉しいです!ああもうこの話を早く書きたい!書きたい衝動に駆られる出会いはめっちゃ嬉しいです!早く書きたい!」






こういうところが結局ライター脳なんだけどな。



立ち止まれなかった。


だって立ち止まったら、生徒、保護者、会社、学校、あらゆる人に迷惑をかけてしまう。

組織の名前と肩書きをかりて、子どもや親御さんのこころとダイレクトに向き合う仕事。どんなに役立たずでも毎月会社からお給料をいただく。

子どもと向き合う者として
サラリーマンとして
組織の一員として

つらいとか苦しいとか
泣いて立ち止まってる暇なんてないでしょう。


そう思えば思うほど、自分を叱咤すればするほど、どんどん苦しくなって胃が痛くなって、明日が来ることが怖くなった。

「義務と責任」が、立ち止まることを許してくれなかった。



 
フリーランスになってよかったと思う。


フリーランスなんて、ただ会社に属してないってだけで、別に自由でもなんでもない。

「好きで生きていく」なんてYoutuberたちの煽り文句を少なくともわたしはなぞれない。生きていくためにわたしはお金がほしい。ハムスターが回し車のなかを走り続けるように、お金を稼ぐために記事をたくさん書き続けた。

楽しいことも嬉しいこともあったけど、苦しいことしんどいこともたくさんあった。自分の中にある違和感と向き合うこともたくさんあった。


それでも
それだから、かも。

フリーランスになって、よかった。


立ち止まることを、許せるようになったから。


つらいなら
苦しいなら
違和感があるなら
働きたくないなら
 

「仕事を、減らそう」


ライターになってからの約2年間
そうやって何度も立ち止まってきた。

仕事を受けなければ収入は減る。ライターの仕事が軌道に乗り始めたあとでも、立ち止まった月の収入は余裕で10万を切った。


でも、それでよかった。

仕事を受けずに立ち止まり続ければ、自分がのたれ死ぬだけ。
あらゆる人に迷惑をかけたかもしれないあの頃より、なんて気がラクなんだろう。

そう思うとこころがラクになる。
そしてまた働く意欲が湧き始める。

結果、感情の波を大きくうねらせながらも、なんだかんだ平穏な気持ちで働き続けられている。


「のたれ死ぬ自由」が、わたしを軽くする。

引き続きフリーランスで、のらりくらりと生きます。


\ しんねん /
  
年末年始はいい具合に廃人だったけどついに今日からいろいろ始動。
明日からフィリピンのバギオで取材の日々なので電車に揺られて関空に向かうなう。深夜にマニラ到着だよ。


ほどほどに満員な電車の中でふらふらしながら星野源のエッセイ『働く男』を読んでたら、源さんが昔書いたらしい短編小説が出てきてな。中年夫婦のほんのちょっと非日常が混じった日常のお話。

それを読んでたらなんだかソワソワしてきて「あーなんかこういうの書きたいいいい」ってどうしようもなくなった。


小説書きたいなーと思うことは度々あったけど、手のつけ方が分からなくて結局いつも最後はゆるりとしたエッセイに終着する。

でも源さんの短編読んでたら「エッセイなのか小説なのかもはや曖昧な日常小説書いてみたいなー」という気持ちになった。夫婦を超えていけ。


「パートナーとネコとほわほわ暮らす」を叶えたい。
理想は具体的に描くほど実現に近づくよーなんて意識高い学生時代に耳タコだったセオリーがこのタイミングで頭をかすめるの。
じゃあさ、その理想をさ、そのままちょう日常的な小説に落とし込むのっていいんじゃないかい。

そんなわけで源さんエッセイそっちのけで頭の中にワードファイルを開き、理想の生活ムービーを上映しながらその風景を言葉にかえる。

最初はほわほわした場面が続いたけど、想像が波にのるほど具体的な問題みたいなものまで出てくる。
「ねえいびきって緩やかな他殺じゃない?」とワードファイルに打ち込んだところでシャットダウン。乗り換えですよ。


毒にもクスリにもならないようなくだらない小説やエッセイを書こう。たまにちょっとエモいやつもいっとこう。
担当編集のAさん、次は「東京との付き合い方」ってタイトルで原稿送るね。



そんな「書く」を、今年は増やしていくつもりです。

\ なにとぞ /



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