大学時代、
メディアコミュニケーション研究所という
慶應内の研究所に
2年生から所属していて、

その時、良い文章を書くための授業、
「文章作法」というのを受講しました。

博報堂ご出身の升野先生の講座…
毎回、宿題がヘビーだったけれど(笑)
とてもとても楽しくて印象深い講義の1つ。

先生から昨日、久々にメールを頂き、
フェイスブック上で優れた文章を紹介しているので、
私が昔に書いたものを載せてよいかと確認メールを頂きました。

もちろんです!と答えて、今日、
先生がシェアしてくれたのを読んだら、
懐かしいのに新鮮で。

いろんなことを思い出してしまい、
帰り道でiPhoneを見ながら
涙が…自分が書いたくせに何をやっているんだろう(笑)

書いたことすら忘れていたのに
保存していてくださった先生、どうもありがとうございます。

7年前、19歳の時に書いた文章。

改めて今読んだら、
直したいところもあったんですけど、
そのまま載せちゃいます。

(あと、そのままコピペしてきたから
改行とかスペースとかおかしくなってるかもあせる

ちなみにまだ、
2回目のねぶた祭りには行けてません。
いつか大事な人と行こうかな。
母も連れて行ってあげたい。


(先生のコメント)

少し長いのですが、長さを感じさせないエッセイです。
エッセイの場合、「共感の同心円」の発見は重要な役割を演じます。
送り手と受け手を瞬時に、
しかも疑似体験を伴ってつなげてしまうからです。
紹介する例は「孫とお祖父さん」という「共感の同心円」を使った作品。
とても奥行きのある文章です。
肉親への情愛には、「絆」とか「DNA」等という言葉は必要ないようですね。


           
祖父の話をしよう           伊藤春香   

あれは私が9歳の夏だった。もう10年もたつのに、
未だに苦い思いなしには語れない―。
この話は、私の心の宝物箱の中でも、
一番キラキラしている、大切な話なのである。

私が愛してやまない祖父は、頭の良い人だった。
いつも近所の中井神社に住むという天狗の話を即興でしてくれて、
なぞなぞが大好きだった私ととんち遊びに興じてくれた。
当時4歳だった私は、なぞかけが得意で、
日常のちょっとした会話をひねるのが大好きだった。

例えば、祖父からの電話は、こういう風に始まる。
「もしもし。星の王子様から、電話ですよ」
これは、祖父が電話に出た私にしゃれっ気を出して、おどけてみただけ。
祖父は、私をお姫様に例えるのが好きだった。
そして、私がお姫様なら、祖父は王子様というわけだ。
私はこう返す。「そう、だったら、きちんと座って話をきかないと」

これでは会話が成り立っていない。
そこで祖父は聞き間違いかと思い、
「なんで座ってお話を聞くの?」と問う。

「だって、お星様の話なら、正座(星座)して聞かなくっちゃ」
この問答が、祖父は大層気に入って、
母にわざわざ手紙を書いてきて知らせたくらいだ。
「4歳にして、この頭の回転。惚けたジジはもう、たじたじです」と。
祖父は頭が良いといって、よく私を誉めてくれた。
ほんのささいなことでも、祖父に報告すると、
最大級の賞賛がかえってきて、私は気をよくしたものだ。
東京と大阪という距離の隔たりはあれども、私達は大の仲良しだった。

初孫ということもあって、
猫かわいがりされた私は、祖父によくなついていた。
祖父の行くところにはどこでも付いていったし、
二人でよくお散歩にも出かけた。
祖父の会社の社員旅行にも、
のこのこと赤い水筒をさげて付いていったほどだ。

一番良く出かけたのは、阪急デパートの屋上だった。
そこにあるバイキングという乗り物が私は大好きだった。
飽きもせずに3回、4回、もう1回とせがむ私に、
チケットを買い与え、「この子は度胸がある」と言ってくれたのは祖父だけで、
ほかの大人は皆「いい加減にしなさい」と私をたしなめた。
祖父は一度も乗らなかった。
私が乗っているのを見るだけでも怖いといっていたが、
乗りながら手を振る私に手を振り返してくれた。
バイキングが一番高い位置につくときには、いつも通天閣が見えた。
通天閣から紙飛行機を飛ばそうというのが、祖父の口癖だった。
ついぞ実現することはなかったが、
あののっぽの塔を見るたびに、それを思い出して切なくなる。

あの頃は、ずいぶん高いところに到達した気でいたが、
大きくなってから久々にのったバイキングは、
子供だましのちゃちな乗り物でしかなかった。
頂上から、通天閣は見えたけれど、空は灰色で、全てが色あせて見えた。
そこから見える大阪は、あまりにも小さくて、
小さい頃祖父の顔と交互に眺めたものとはまるで別物だった。
それ以来、あのデパートの屋上には、足を踏み入れていない。

ねぶた祭を見に行ったときには、
パレードが終わったと思って帰ろうとする祖父を私がひきとめた。
「アンパンマンがくる」といって。祖父がそんなわけないよ、と振り返ると、
暫くたって、ネオンでピカピカ輝いたアンパンマンのパレードが始まったので、
祖父も祖母も、私の目ざとさに驚いたという話。
これも、祖父のお気に入りのエピソードだ。
「春香ちゃんが一番最初に気づいたんや」といって、
ビールを飲みながら母に自慢げに語っていた。
ビールとハムと生卵かけご飯。これが祖父の大好物だった。

一度、ビールの形のハガキを送ったことがある。
ビールの写真が、そのままハガキになったものだ。
祖父は大喜びしてくれて、お礼にと、レターセットを送ってくれた。
それは、アイスクリームの絵柄で、透明な封筒がついていた。
レターセットなのに、カキ氷を食べるための、
先の割れたストローも入っていた。
ものすごく気に入って、使うのがもったいなかったせいか、
それは最近まで手元に残っていた。
最後の1枚は、アルバムにいれてある。
祖父の思い出と共に、ずっと保存するために。

祖父は私の欲しがるものをなんでも買い与えたがった。
アレルギー持ちの私には禁止されていた
ソフトクリームやシュークリームを祖父は内緒で買い与えてくれた。
もちろんそれは、夜に出る私の湿疹で、母にばれてしまうのだけど。
祖父はシュークリームが大好きで、それは母と私に遺伝した。
ヒロタのシュークリームがお気に入りだった祖父に、
東京で流行っているビアードパパのシュークリームを食べさせてあげたい。
あんなに大きなシュークリームを、祖父は食べられるだろうか。

リカちゃん人形も、そのおうちも、
おもちゃの電車もセーラームーンのイラストブックも、
全部祖父がデパートで買ってくれた。
高価なものでもすぐに買ってくれて、旅行にも連れて行ってくれる祖父を、
私は、とてもとてもお金持ちなんだと思っていた。

だが実際は、会社の経営が不振だった年もあったようだ。
祖父が亡くなる1年前には、
経営していた2つの会社のうちのひとつが倒産していたのだが、
私はそれを、祖父の死後、母の口から聞いた。

「春香ちゃんには、心配をかけないようにと、
おじいちゃんに黙ってるように言われたの」。
辛いことは顔に出さず、常に朗らかでポジティブな人だった。
祖父が怒っているのは見たことがない。
当然、周りからも慕われた。
祖父は、私以外のみんなにとっても「大事な人」だった。

倒産の話を聞いたとき、私は決して祖父の仲良しではなく、
保護される立場にいたんだと少し寂しく思った。
私を心配させないようにと祖父がした配慮は優しさ以外の何物でもない。
しかし、それまでは、たとえ、祖父と孫という関係でも、
対等な立場にあると思っていたのだ。
当時私は小学3年生。「倒産」という単語も、
その意味も、充分わかる年齢だった。
少しでも祖父の役に立ちたかった。
話を聞いてあげることもできなかった自分がふがいなかった。

むしろ私は、祖父に必要とされていなかったのだ。
なぜなら、私は子供だったから。
けれど、私は幼いながら一人前のつもりだったので、
祖父とは、誰よりもわかちあって、最高のパートナーでありたかった。
そうなるには、私は幼すぎたのだった。

経営する会社の社長室で、
すでにこときれた祖父が発見されたのは7月の終わり。
突然の心臓発作。予兆は無かった。午前9時半。
享年60歳。早すぎる死だった。

学校に迎えに来た母のくしゃくしゃになった顔、
涙でふやけた指、畳に静かに横たわった祖父の安らかな顔、
お線香の香り。断片的にしか思い出せないお葬式の記憶。
私は、数日間、誰も使っていない部屋にもぐっていたように思う。
ひたすら本を読んで、現実から逃避していた。
ときたま思い出したように泣いて、また空想の世界に戻った。

 祖父が死ぬ数日前に、私は家出をしていた。
小さなことがきっかけで母と口論になって、
衝動的に家を飛び出したのだ。
一時間後には戻ってきて、何事もなかったかのように、その日は終わった。

しかし、母は、私が家を出ている間、必死に私を探していた。
その間、久しぶりにかかってきた祖父の電話を、
「今、そんな暇ない」と切ってしまっていた。
そしてそれが祖父と母が交わした、最後の会話になった。
そのことを泣きながら祖父の遺体に向かって悔いる母の姿が
目に焼きついて離れない。

私が家出しなければ―。
私が癇癪を起こさなければ、
母は一生ついてまわる大きな後悔を背負わなくて済んだのだ。
母に背負わせた苦しみの何倍も私が苦しい目にあわなければ、
自分は生きていけないと、その時思った。
どうしたら自分を痛めつけることが出来るかを、当時はずっと考えた。

そんなとき、祖母から母の手を渡って、私に届いた手紙があった。
それは、祖父が亡くなる直前に私に書いた手紙だった。

お決まりの、「大好きな春香姫へ」から始まるその手紙は、
本当に本当に短いものだった。
「春香姫が18歳になったら、またねぶた祭に行こう」と。
そういう趣旨のことが、ほんの2、3行書いてあった。
それを読んで、涙が止まらなかった。
その時、元気で生きて欲しいというメッセージを祖父に貰った気がした。

私は、「祖父の大事な私と家族」が、悲しんでいたら、
天国の祖父もさぞ悲しいだろうと考え直した。

日に日に私は元気になり、母を笑わせるようになった。
自分を痛めつけるのではなく、
母が少しでもハッピーになるために
自分のできることをするのが私の役目になった。

祖父は自分が死ぬことを予測して、私にあの手紙を書いたのだろうか。
あの手紙が、私を負から正の場所へと押し戻してくれた。

それから、9年後、
18歳になった私がひとりでねぶた祭へ行くことはなかった。
あのお祭りは、祖父と一緒でなければ見られない気がした。
9年経って尚、祖父の思い出はなくならないし、色あせることがない。

今年、私は20歳になる。人生の節目となる年だ。
大人になるということ。責任をもつということ。その資格を私はもった。
まだまだスタートラインだから、偉そうなことはいえないけれど、
これから、走っていけばいい。

まだまだ経験値は足りないものの、
今の私なら、祖父と最高のパートナーになれると思う。
そして、なぜか私は、
今年なら、あの場所に行っても良いという気分になっている。

今年こそ、2年遅れた約束を、私は一人で果たしに行く。